sábado, 26 de enero de 2013

アラシータスのお祭りの一角に見える神々たち


アンデスの豊穣の神であるエケコ(上の写真)が司るミニチュアの祭りアラシータス(alasitas)が24日(木)から始まった。これはこのあと一ヶ月くらい続いていく。

物質的な富の蓄積を願って、欲しい物のミニチュアを購入するという独特な工芸品のお祭りで、商店の商品セット、日常生活の必需食料品セット(小麦粉とか砂糖とか)、現金紙幣(ドル、ボリビアーノス、ユーロ)、家、建築途中の敷地と柱とセメントや漆喰のセット、車、トラック、スーツケース、大学の学位証明書など、所狭しと物と人がひしめき合う。豊穣のお祭りらしく、ミニチュアのパンやお菓子やサルテーニャ(ボリビア名物のパンの包み焼き)なども売られる。

しかしこのお祭り、先ほどのエケコ以外にも宗教的なモチーフが顔を出す。買ったミニチュアの工芸品は、初日の正午近辺で民間呪術師にアルコールなどを振りかけながら祈祷をしてもらう(ch'allar)と効果が出ると言われていて、従ってこの時間帯はものすごい混雑するのだが、それだけでもない。

一つはこの蛙の存在だ。蛙は金をもたらす動物だとされていて、蛙自体が売っていることもあるし、先ほど挙げた現金紙幣などはとっても小さい蛙が一緒に付いてくるものがあったりする。

蛙は蛇と近い存在で、これらの地面を這うような位置にある動物たちは、地面の「中」の世界(manqhapacha)に棲みついていると考えられている。これは鉱山の中だけではなく、地表すれすれやアンデス高地から見て標高の低い方の地も、その世界を構成していると考えられるように思う。実際、私の友人によれば、蛙は鉱山をつかさどる神であるティオ(tío)の傍にいる存在でもあるらしい。

(追記:別の友人によれば、蛙は雨が降ると出てくるので豊穣のイメージと関連付けて捉えられているともいう。)

これは豊穣の鍋(olla de abundancia)と言われて、素焼の鍋から富が溢れ出てくる。



この屋台は典型的な蛙と蛇の組み合わせなのだけど、同時に最近のアンデスでは「干支(えと)」という考え方が実は大流行していて、かなりの人が今年が蛇年だということを知っている(例えばこの上の写真)。そして蛇は金をもたらしてくれたりもするので、これは中国とアンデスの興味深い出会いものになっているなと思いながら、私は屋台を巡っていった。この貪欲に取り込んでしまう感じも楽しい。

domingo, 13 de enero de 2013

遠くに見える街の灯りと空気の張り詰め方と和らぎ方と

ラパスの街から渓谷部(バーリェ)に下りて行くと、そこでは空気が和らぐのが肌で感じられる。そのやわらかい空気の中で、夜になっても冷え込まない空気の中で、暗くなった後に家の入り口を開け放して外になんとなく人々が集まって、話をしたり、酒を飲んだり、ゲームをしたり、タマネギの皮をむいたりしている。

こういう光景を見ると、その空気を味わうと、ああ自分がラテンアメリカにいると思って懐かしくなる。これは考えてみると不思議だね。私は、もともとペルーのクスコやボリビアのラパスを調査と生活の拠点としているので、アンデスの標高の高い街の空気がきりりと張る感じ、空気が薄くて意識が研ぎ澄まされていく感じの方に馴染んでいるのだ。

そういう中をラパスの街に向って帰り始めると、だいぶ坂道をずっとずっと上って行ったところで、山あいの向こうにラパスの街の灯りが見える。

ずっと向こう側に自分がいる街の灯りがパッと広がる感じは、昔からよく覚えている。
水などの開発プロジェクトの調整で、ペルー北部のアンデスで一週間村々を回ってきた後に、山を下り終わってはるか向こうに一直線にピウラの街の灯りが広がったときの感じ。
一日山の上の方の市で家族総出で商売をやった後に帰って来て、峠を越えた瞬間にペルーのクスコの街並みが眼下に広がり、その黄色の光の海に向かって降りて行くあの感じ。
国境などから戻ってきて、ティワナクを過ぎて小高い丘の峠越えをするときに、向こう側にいきなり広がるボリビアのエルアルト市の灯りと、ああ文明に帰ってきたと思うあの謎の感じ。
渓谷部にある村に夜のギリギリまでいたあとで、何とか近くの町から帰るための車を見つけて上って来たときに、山が折り重なった向こうの上の方にわずかに姿を見せるボリビアのラパス市の灯り。

アンデスで、そして世界中で、どれだけの人々が、空気のやわらかさや硬さを感じて、そして戻って来た街の灯りを眺めながら暮らしているのだろうか。

ジャガイモとトウモロコシと

南アンデス高地は豊穣の季節に入っている。そしてアンデス社会の食事の基礎をなすのは、やっぱりジャガイモとトウモロコシだ。

アンデスにいるとジャガイモが基本的にとても美味しいのだけれど、やっぱり渓谷部でとれるジャガイモよりも、標高が高い高原地帯でとれるジャガイモの方が味がいいというのは一般的にあるみたいで、ごくたまにもうすごく美味しいジャガイモにあたるときがあって、粉をふいていてホクホクしていて甘くて、そのようなときは世界の何かに対してありがとうと言いたくなる。

その前に自分で石のすり鉢を使って、トウガラシ(ロコト)やハーブ(キルキーニャやワカタイ)やトマトをガシガシとつぶしてすって作ったリャフアという調味料がうまくできたときなんざ、右手でジャガイモを持って、右親指でリャフアをすくって、一緒に口に入れるときのこのうまさだよ。

今日食べたジャガイモは、昨日山の上の方の村の人が果物と交換しに持ってきたものだ。アンデス社会に生き続ける物々交換(trueque)がもたらしてくれた、たまたまの巡り合わせに感謝。一緒にいた家族の長男も、今日は朝早くからかごに果物を入れてチチカカ湖畔の方まで出かけて行って、ソラマメとトゥンタ(乾燥ジャガイモの一種)を一杯に入れて帰って来た。まだまだ日常生活に物々交換が生きていて、活発化するのが今の季節なのだなあ。

そしてとれたての白トウモロコシ(チョクロ)の、大粒のみずみずしい甘さ。茹でたてのものをがんがん食べられるけど、この家族のおばあちゃんは、生のまま勢いよくかじっていく人もいるんだよと教えてくれた。

今年も一日がかりで恒例のウミンタづくりをする。トウモロコシの外皮をむいてむいてむいてむいて、白い粒をこそげおとしてこそげおとしておとしておとして、それをテーブルの横にとりつけた装置ですりおろしてすりおろしてすりおろして、それに溶かしバターと塩と砂糖とシナモン粉をまぜて、チーズとともにその皮に包んでいって、オーブンに放り込む。市販のやつは小麦粉を混ぜているけど、うちのは100%トウモロコシだけで作る本物だよと言われて、オーブンから出したてのものを一つ頬張る。

皆が外で色々な問題を抱えていても、なんでこんなうまくいかないんだろうと頭を抱えていても、ジャガイモを頬張った瞬間は、オーブンからウミンタが出て来た瞬間は、やはり本物の幸せがここにあるんだと思う。

miércoles, 9 de enero de 2013

新年の抱負

自分の行く先を占うような苦しい時期は周期的に巡ってくる。

深く潜っていく際の考え方とか、日常の習慣をやり直すとか、何をやって何をやらないことにするかとか。

これではダメだという思いと、何かにしがみつこうとする思いが交錯しながら、自分を絞り込んで透徹にしていく作業をする。

だからといって事態は好転しないどころか、上り坂はさらに急になり、苦しさは増すけれど、でも焦点を何度でも合わせ直すことはできるし、自分の感覚を何かに向って開き続けることはできる。

ただ明るく無邪気な楽観とは友だちのままでいよう。

新しい光景から今までのことを続けなければいけないのが私の2013年です。今年もよろしくお願いします。