miércoles, 19 de octubre de 2011

お生花(せいか)

水曜日にうちの会の生け花の師範試験があって、後輩が一人合格した。おめでとう~。
お生花と呼ばれる伝統花の師範試験では、現代花も併せて生けるのだけれど、3時間ほど部屋に閉じ込められる(もっとだったかな)。そして本当にフルに時間いっぱいやることがある。忙しい現代では、なかなかそれだけの濃密な時間を自分と花だけで向き合って過ごすことはないもので、私はそのときに生けたヒバとは、それ以降(種として)すっかりお友達になってしまった。

現代花ではなくて伝統花をやることの意味は、多分人それぞれなのだろうけれど、僕自身にとっての意味は<何かが伝承されること>にある。新米の我々は、本当にそれこそ先生と二人三脚になる。最初の頃は(今でも)、自分が生けているんだか先生が生けているんだか、どちらかというと後者だろうかね、ということにもなる。でも多分そこが大事なのだと思う。生けるという行為が、自分と花という対話だけでなく、自分と花と先生という三者の関係になるというかな。型を受け取るというのは、真似をすることとは違う。身体(指)の動かし方とか、眼の使い方とか、自分の感受性の全てを使って、「そうか、これがいいんだ」というのを自分の中に刻んでいく。

これは少し、研究者の世界での技の伝承と似ている。すれてきてしまった今は少なくなったが(悪い意味で要領が良くなったか)、私は昔、自分の先生の柳原透という人が、この場面に出くわしたときに何を言うか、これを言ったら次に何を言うか、なぜこう来たら次にそうなのか、それこそそれがそこにあることの意味を、じーっとひたすら「見ていた」時期が数年間ある。これは「OO学」(ディシプリン)という場合の物の見方を身に付けるのとは違う、もう一段基礎的なところでの思考の仕方を身体で覚えようとしていたんだと今では思う。事実、経済を教えていたその先生が私に経済「学」を勉強するなと言ったのは、多分そういうことなのだと思っている(実際には、経済学を勉強しているやつで現実の経済の動きが見えないやつは沢山いるから、そうなるなと言われたのだった)。大学とか何が面白いんだかさっぱり分からなかった私は、それならば意味があると思えたほとんど唯一のものに、もう文字通りしがみついていた時期がある。

でも不思議で面白いのは、そんなに二人三脚でやっても、やはり先生の形にならないということなのだ。先生の形が自分の身体の中に入ってくる、それなのに自分から出て行くときは、抗いようもなく自分の形になっていく。この、どうしようもなく自分らしくなってしまうという感覚は、そもそも勝手気ままな私に新しい何かを確実にもたらした。

なんとなく、役者の世界にいる人が伝統芸能の世界に興味を持つのはそういうことのような気がして、口頭の世界で言葉の術(態)が伝えられていくのはそういうことのような気がして、生け花を越えたある一つの世界とつながれるように思うのだ。しかも生け花は業界としてはそれほど勢いがなくて、特に伝統花はこれはいいかもというところまで行っている会はとても少ない。それも含めて、研究者の世界に加えてもう一つ、技が伝承される世界にいられることは幸せで、そういうことが何らかの形で他の人にも起きるといいなと、思っていたりする。

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