東京にいるときは国語を専門に教える塾で大学受験生を相手に教えています。東京の面白いところは、英語だけとか、こういう単科の塾が複数存在できるところですね。不況のときは安上がり志向が増えてきて結構大変になるみたいですが。
実際にどう教えているかというよりは、自分の研究に関係ある話を。古文の先生をしているときは、古文の基礎は品詞分解をして直訳をすることだと教えます。要は助動詞や助詞などのパーツを一つ一つ正確に訳してつなげるような、それでいて日本語としてちゃんとしている訳をできるようになる、ということです。その先にももっとたくさんあるのですが、まずはこれですら学校でなかなかうまく教えてもらえていない生徒は多い。
広い文脈につなげると、これは小説家の人々が取り組む訳というよりも、そして一般の人を対象として分かり易い日本語で意訳するというよりも、大学で勉強するということを視野に入れた訳の仕方だと言えるのだろうと思います。源氏物語を中心とした藤井貞和さんの「研究語訳」という提唱と取り組みは、この延長線上につながってくるのだと思います。
さてさて、僕はこれは古文の話だと思っていたのですが(ただし漢文も漢字の品詞を考えるという似た教え方をしますが)、アンデスの言葉を勉強するようになって、そして研究の世界を垣間見るようになって、おおっと思ったことがあります。僕は言語学の細かいことにあまり詳しくないので言葉使いがちょっと変になるかもしれないのですが、アンデスのケチュア語とアイマラ語はともに接尾辞を連ねて動詞や名詞に意味を付け加えていく言語です。つまり日本語の助動詞と助詞のようなものを持つ「膠着語」と呼ばれる種類に属する言語で、日本語のように漢字の力に早くから頼らなかった分、それぞれの接尾辞の意味の場の広がりと組み合わせ方が一層複雑なように思います。
そうすると何と研究者の人たちは「品詞分解」にあたるものをします。análisis morfológicoと呼ばれるものがそれです。そして、スペイン語に訳すときに「アンデスのスペイン語(castellano andino)」と呼ばれる、この地域で普通の人々が話すスペイン語の方言のようなもので訳すべきことが提唱されるのです。ここではスペイン語は長らくアンデスの言語と接触してきたので、アンデスの言語の特徴の影響を受けた様々な言い回しが発達してきました。つまり境界領域での翻訳が長期にわたって行われてきた訳ですね。そのようなスペイン語の種類を使った方が、正確に直訳に近い仕方で訳が工夫できる、と考えるのです。
こう考えて来ると、日本語の古文の世界とアンデスの言語の世界が思わぬところで結びついて比較できるようになってきます。
ただし、文化的な状況説明を必要に応じて加えながら訳すという姿勢を強調することもできます。César Itierのケチュア語の口承文学の訳や、Ricardo ValderramaとCarmen Escalanteのオーラルヒストリーの訳は、どちらかというとそちらに重点を置いた訳になっています。この辺りも、日本の古文の訳を巡る議論とかぶってくるところがあるかもしれません。
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