今年二月に亡くなったMatilde Garvíaという人がいた。今日は、彼女の追悼の催しがあったのだ。彼女とAugusto Céspedesとの間の娘が全体の構成を担当していた。
この国では1952年に革命が起きた。この革命は混血の思想に主導されたために「先住民」の位置がないことが、その後になって次の時代への動きを作り出す。とはいえ、農地改革、教育の農村への普及、普通選挙など、大きな変革をこの時代のボリビア社会は経験する。
しかし、それよりもさらに3年前。ボリビア映画史の最初期に女優として活躍したそのMatilde Garvíaが、Teatro Municipal(市立劇場)という上流階層の文化の中心地で、アイマラ語の詩の朗読を、オーケストラによるアンデス音楽を基盤とする楽曲の演奏と組み合わせるという、前代未聞の催しを試みた。プログラムの名前はAntis Aru(アンデスの言葉)。会場には、当時の新聞記事の数々が貼り出され、いかに反響が大きかったかが伺える。それらの記事を読んでいると、フォルクローレというのは現代では政治経済と関係なく文化の領域にその民族を閉じ込めてしまうという批判がなされるが、その文化の領域だけでも「死にいくもの」としての位置付けだけでない生きた関心が持たれることが、当時の主流社会の中でいかに大きな衝撃だったかが分かる。
僕自身がここで色々と教わっている師匠のような存在であるSilvia Rivera Cusicanquiと、僕と同世代くらいの人たちの集団が追悼映像の作成を担当し、今一緒に仕事をしているFilomena Ninaという人が、そのアイマラ語の詩の現代の書記法への書き換えと翻訳を担当していたから、この人の存在を知った。
詩の原作者はAntonio González Bravoと言う。当時アンデスの文化に興味を持ちアルティプラノ(高原地帯)を歩き回っていた人らしい。美しい詩だった。今までに出版されているアイマラ語の詩のアンソロジーに、この人は載っていない。アイマラの文化に興味を持って入っていこうとして、言葉を磨いていって詩を書いた。クスコでは、そのようにアンデス文化を愛しケチュア語で見事な詩を作ったAndrés Alencastreという人は、同時に自分の農園ではインディオに対して暴君であった(後に自分の農園の農民たちに虐殺される)。この人とアイマラの人たちの関係はどうだったのだろうか。
当時のUMSA(国立サンアンドレス大学)には、アイマラ語の講座もあったらしい。僕がアイマラ語を教わったJuan de Dios Yapitaという人が、1970年代に言語学科の設立に関わって初めて教えられるようになったのだろうと思っていた。昔のことで分かっていないことは沢山あって、また一つ世界が重層的になっていく。
miércoles, 11 de agosto de 2010
1949年にアイマラ語で詩を朗読すること
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