jawsat anu 呼ばれてきた犬
村に来たよそ者たちが得意げに振る舞い、村を食い物にしてうまい汁を吸っている様子を揶揄する言葉だという。要するに、村の生活に溶け込もうとしない態度のこと。
興味深いのは、この言葉を挙げながら議論を重ねていたのがアイマラの人たちで、農村部にできた国立の先住民大学で何らかの形で教員として関わっていて、その大学のあり方を批判的に振り返る中でこの言葉が出てきたことだ。
90年代は、白人・混血の支配層が自らのインディヘニスモを振り返る内省が進んだとすると(例えばウカマウのPara recibir el canto de los pájaros(邦題『鳥の歌』)はその気運をよく表している)、現在は都市と農村の間でのアイマラの人たち自身の分断が前景化・問題化されてくる時代なのだと思う。これは、都市のアイマラには都市のアイマラの生き方があるという気概ともぶつかるために、一筋縄ではいかない厄介な問題だ。
これは、グローバル化し市場経済に積極的に参入していくアイマラ富裕層を、社会につなぎとめられるかという、より広い問題とも今後つながってくるだろう。
(ただし、同じウカマウのLa nación clandestina(邦題『地下の民』)は、都市に出たアイマラの人は農村に戻れるのかという、とても射程の長い問題を扱っているのでもあった。その意味で先駆的だが、そこでの問題の立て方と現代はやはりずれていく。)
でも、私はこの時代に、この新しい問題を自分の近くに感じながら生きていられて、そのジレンマを肌で感じながら生きている人たちと仕事ができることは、とても有り難いことだと思っている。ここに、一つの新しいフロンティアがある。
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