11月15日は、18世紀末のアンデスの大反乱の時代に、ボリビアで蜂起したトゥパク・カタリ(Túpac Katari)が処刑された日だ(1781年)。彼は現代ボリビアの様々な先住民運動にその名前を残していて、この日に向けて記念するためのイベントがラパス市では開かれる。
温情的に<他者>である先住民を主流社会に組み込もうとするインディヘニスモと対比して、先住民自らが自分たちのものを取り戻し再興しようとする思想をインディアニスモと呼ぶ。
前々から薄々こういうことだろうと思っていて、今日あらためて確認できたのは、インディアニスモの目標とは、<パチャクティ(pachakuti)を通じたコリャスーユ(Qullasuyu)の再興>であり続けているということだ。
コリャスーユというのは、インカの時代においてアイマラを中心とする人々が領域の南部で占めた地域の呼称だ。先住民の政治運動や政治思想は、興味深いことに、過去のある特定の時代を目標として定めることが多く、ここには<アイマラの人々はインカに支配された側なのではないだろうか>など議論の余地があるのだが、そこが問い直され議論されることはあまりない。そして、pachaは時間と空間が複合した概念、そしてkutiñaは「ひっくり返す」と「戻る」という意味をもった単語で、私が仲良くする組織Taller de Historia Oral Andina (THOA)のFelipe Santosは、<ひっくり返して戻るのだが、戻ったところはまったく新しい地平である>という興味深い見解を、この概念に関して提示している。
ここから、運動の目標として、「脱植民地化(descolonización)」や「解放(liberación)」はそれ自体も使われるのだが、むしろ「自らの回復(reivindicación)」や「再興(reconstitución)」が言葉として重視され掲げられることになる(Constantino Lima)。アメリカ大陸の先陣を切ってコリャスーユがreivindicaciónとreconstituciónを達成しよう、という目標だ。
この目標の中で、エボ・モラレス政権の成立、あるいは多民族国家(estado plurinacional)の建設というのは、一つの過渡期に過ぎなくなる。従ってそこから、強い批判の力を現状に対してインディアニスモはもつことになる。
この目標は、「自決(autodeterminación)」、つまり<自分たちのことは自分たちで決定する>という考え方と強くつながっている。ここで、この<自分たち>というのが明確に規定できるかどうかは、かなり難しい。混血(メスティソ)化したアイマラの人たちをどう考えるか、現政権下でアイマラの富裕層(burguesía aymara)が拡大しているという事実をどう考えるか、そこに低地先住民はどのような形で入っているのか。そして既存の行政区分を変えることは本当に困難で(既得権益)、ボリビアでの先住民自治の実際は遅々として進んでいない。<自分たち>を明確に規定することが難しいにもかかわらず、先住民の自決という考え方が力をもつ。そして多元性や複合性が幾ら強調されようとも歴史の節目に「二つのボリビア(Dos Bolivias)」(白人・混血層のボリビアと先住民のボリビア)という考え方が力をもち、二元的な社会観に基づいて主流社会を突き上げようとする。この矛盾と難題が、実はボリビアの政治の最も重要な駆動力の一つだと私は思う。
これに関連してふと気づいたのは、主流社会の側から提示された<混血(メスティソ)アイデンティティと先住民アイデンティティは互いに矛盾せず、多くの人が両方のアイデンティティを生きているのではないか>という主張に私は注目しているのだが(具体的に提示したのはFundación UNIRという組織で、私は大使館勤務時代に立ち上げにも一部関わっていました)、今日のイベントを聞いていて、この図式を時間化してしまうとかなり簡単に頽落してしまう、つまり、先住民としての過去を持ちつつ現在は混血化しているとすると、かつての混血(メスティサヘ)へと社会を統合しようとした時代の思想と変わらなくなってしまうという批判の可能性だ。(実際にUNIRの中でそういう議論の組み立てを聞いたことがあった。)現在において、同時に、混血アイデンティティと先住民アイデンティティをもっているのではないか、と考えるためには、かなりの強い思考力が要求されるのかもしれない。
今日のイベントでの指摘で興味深かったのは、コリャスーユの再興に向かうインディアニスモに対して、(具体的な70年代からの)カタリスモ(カタリ主義)はボリビア社会の中に自らを位置づけ、協力・協調の可能性を探る立場だと規定されていたことだ(Pedro Portugal)。(もちろんこれが1970年代以降に興隆したアイマラ先住民運動の分裂と弱体化をもたらした重要な要因でもある。)そこから、ファウスト・レイナガ(Fausto Reynaga)やフェリペ・キスぺ(Felipe Quispe)が提唱した「二つのボリビア」(上述)という概念は、我々がボリビアの一部を構成していることになってしまうという点で、批判されるべき考え方になりもする(Constantino Lima)。
これらの考察の現代性としてもう一つ挙げられるのは、現状について、<インディオが権力を獲ってインディヘニスタに堕落した>と捉え、<権力をとることが脱植民地化なのではない>という認識が共有されていたことだ。本来希望をもたらすはずだった政治が大規模な幻滅と現状迎合を生んでいる今の時代に、強い批判の立場があることは、やはり心強い。
だが、だが、やはり私の批判的コメントも最後に書いておかないといけない。今日のPedro Portugalが一つの典型なのだが、彼は、<他者>になることを全て拒絶する、ある種の先住民的普遍主義的ラディカリズムとでも呼べる立場をとる(分かり難いネーミングなのだが取りあえずそう呼んでおく)。そうすると、独特の宗教や世界観の存在も、はたまたより良いもう一つの世界の可能性も、打ち消してしまいそうになり、段々とどこへ行くんだか分らなくなる。奇妙なことにカタリスタ/インディアニスタ運動(ここは総称します)の指導者にはこのような考え方が見られることがあり、実はフェリペ・キスペにも似たような所がある。
(フェリペ・キスペには、戦闘で強いやつが勝つという考え方と、ある種の素朴な(「トラクター導入型」)近代化への志向が存在しているということを、かつてどこかに書いたんだが、探さなければならない。)
そして、そして、やはりインディアニスモは男性主義的(マチスタ)な思想なのだ。今日のイベントも登壇者に女性は一人しかいなかった。男性に従属するのではないとすると、女性のラディカルな思考は、階級をまたぎ国際的なネットワークの中に自らを位置づけていくアナーキズムの形をとることが多く、そこのせめぎ合いに目をつぶってインディアニスモを礼賛してもいけないのだ。
(後でもう少し具体的な情報を補いますが、とりあえず着想を全て書き記しておきます。)
こんにちは
ResponderBorrarコリャスーユの再興と言ったとき、アルゼンチンの北西部との連帯も含むのかなとちらっと思いました。
アルゼンチン北西部ではトゥパク・アマル運動が力を持っているようです。(リーダーは女性)
アルゼンチンのインデイアニスモはボリビアとは比較にならないほど小さな声だとは思うのですが…
コメントをありがとうございます。
Borrar上の文章には間接的にしか書いていないのですが、お答えとしては、アイマラ先住民の中にしか目と想像力が向かないのが、大きな限界点だろうと思います。そこには、アルゼンチンの北西部どころか、ボリビアの東部低地も入ってはいません。
ただ、平常時或いは劣勢にある時代というのは、元々そのようなものなのかもしれません。
それにしてもアルゼンチン北西部の話、興味深いですね。
立ち止まって考えるべき点を色々含むエントリだと思いますが、個人的には
ResponderBorrar><自分たち>を明確に規定することが難しいにもかかわらず、先住民の自決という考え方が力をもつ。
この部分と、次の段落の
><混血(メスティソ)アイデンティティと先住民アイデンティティは互いに矛盾せず、多くの人が両方のアイデンティティを生きているのではないか>という主張
この部分は自分の関心でもあります。
どちらの内容も、もっともだなと思いつつ、
ボリビアに限った話ではないだろうとも思います。
自分の場合は17世紀のクリオーリョになりますけれど、クリオーリョとは何か?という定義の確定・共有が為されていなくても、クリオーリョの復権!みたいなスローガン・言説を生産するのに何の支障もないようですし。言葉というものの性格ですかね。
複数のIDを生きるというのは中々健康的な捉え方ですね。生活の局面局面で倫理的に肩入れしたい対象は変わるでしょうし。…と書いていて、藤田さんはそういう風には捉えてないのだろうと思いましたが(時間化云々の下り)。
アイデンティティーという言葉にはいつも惹きつけられるんですけれど、論じた気に殆どなれないゆらゆらした概念だと感じています。個人のIDでそうなので、集合的アイデンティティー、などとなった日にゃあ、と。勿論取り組みたいのですけれど。
ではまた。
定義の話はおっしゃる通りで、「われわれは皆アイマラだ」という政治的な言説が、実際の日常生活の中で人々がもつ地域ベースのアイデンティティと一致していないというのは、ボリビアでの人類学の研究成果として指摘されているところでもあります。
Borrarしかしながら反乱の時代になると一気にせり上がって来て、実際に情勢を動かしてしまうので、その<揺らぎの中で実際に物事が動いてしまう>感覚を捉えるのが、本当に難しい課題です。
ボリビアに限った話ではない、の補足ですけれど、
ResponderBorrar「自分たち」を明確に定義出来ていて、かつ深刻な問題を抱えていない社会集団、あるいは国というとどこがあるでしょう?
この論点、様々な事例を比較考察できるように議論を展開できる力が私にはないのですが、ボリビアの場合ギリギリ<本来こうあるべきなんじゃないか>という先住民が復権した政治体制の姿を薄く垣間見ることが出来るような気がするのが、大きな特徴ではないかと思います。しかし、それは過渡期に大きな暴力的過程を伴うはずです。本当に蜂起して、アメリカによってエルアルトに原爆を落とされるというSF小説が、ボリビアにはあります。
Borrar連投すみません。
ResponderBorrar「自分たち」を明確に定義出来ていて、かつそれに伴う問題(=そこからはみ出る人たちetc)を抱えていない国、集団、に修正させて下さい。