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miércoles, 8 de febrero de 2023

アイヌ語の口承物語研究を進める際の「文献学的課題」(その5)知里幸恵と同世代の少年たちが筆録したアイヌ語(吉田巌遺稿資料)

(2023年10月1日に若干の追記を行いました。)

 ここしばらく、2017年くらいから、私が所属している研究グループでは十勝地方のアイヌ語の記録の回復に取り組んできている。一つの成果としては、千葉大学アイヌ語研究会編『沼田武男「採訪帖」―アイヌ語十勝方言テキスト集』 (千葉大学文学部ユーラシア言語文化論講座、2021)が刊行されていて、また最近の取り組みの進展は中川裕「<アイヌ語を語り継ぐ>言葉の流れ 今も脈々と」(『信濃毎日新聞』、2023年1月15日)で紹介されている。

 様々な理由で十勝のアイヌ語やアイヌ語で語られた口承文芸は、なかなかその姿を把握することが容易ではない。 それは、かつてこの地域で重要な録音作業をしていたはずの帯広畜産大の辻秀子さんによる記録資料が、整理をされないままで行方が分からなくなったことも一因である(以前のエントリー「アイヌ語の口承物語研究を進める際の「文献学的課題」(その3)」も参照、なおこの件には前進がみられるようだ)。また本別の沢井トメノさんが伝承した記録は、浅井亨、切替英雄、高橋靖以、澤井晴美の各氏によって公刊されてきているが、文字のみであって、音声が公になっておらず、また記録された資料の全貌がどれほどなのかも明らかになっていはいない。おそらく現状で公刊されているのは、沢井トメノさんが語り伝えたことの一部でしかないだろう。(上の辻秀子さんの記録のなかにも、沢井トメノさんの語りは複数収められていたことがみてとれる。)

 ここでとりあげるもう一つ大きい点は、十勝を拠点とした吉田巌が遺した資料のなかのアイヌ語部分がほとんど公になっていないことである。これは「吉田巌遺稿資料」という名称で、帯広市図書館に保管されてあるといわれ(蔵書検索では出てこない)、またその複製が北海道立図書館で閲覧可能になっている(以下の米田(1995)によれば、道立図書館で公開されているのは全体の一部でしかないらしい)。これは中身を見てみると、虻田学園をはじめとして、吉田巌が学校で少年たちから提出させていたらしい、それぞれの少年たちの出身地でのアイヌ語と伝承の記録が、多数収められている。

 この吉田巌遺稿資料のアイヌ語部分がもつ重要性は、札大の本田優子さんのかつての仕事である米田(1995)「アイヌ農耕史研究にみられる伝承資料利用の問題点」(『北海道立アイタ民族文化研究セソター研究紀要』第1号)においても指摘されており、そこでは、これらのアイヌ語資料の今後の公刊に期待が寄せられていた。しかしながら、この吉田巌遺稿資料は、帯広市によって「帯広叢書」というシリーズで公刊が続けられてきたが、不思議なことに、上述の少年たちによるアイヌ語の記録資料部分は、現在に至るまでほとんどそこに含められていない。唯一、若き日の江賀寅三による記録が収められているが、これすら江賀寅三の名前で遺稿資料に収められている記録の、ごくごく一部でしかない。そもそも資料の全貌がどれくらいあるのかすら分からない。

 吉田巌のアイヌ伝承に関する記録は、「帯広市社会教育叢書」というシリーズでかつて刊行されていたものの中に複数収められているのだが、不思議なことにそれぞれの伝承の出典や語り手の情報はほとんど示されておらず、またアイヌ語の原文がある場合が複数あると思われるが、日本語でしか書かれていない。したがって刊行された記録と、原記録のあいだの対応がついていないのだ。

 このアイヌ語の記録が興味深く、重要性が高いのは、記録を残したこの少年たちが知里幸恵とほぼ同時代の、ほんの少し年上の世代に属していることである。同時代のアイヌ語の記録としては、金田一京助の影響のもとでアイヌ語の筆記にとりかかった知里幸恵が、孤高の存在として屹立している印象をどうしても受けてしまうが、同時代に吉田巌の学校でもアイヌ語をひらがなやカタカナを用いて記録していた子どもたちがいたのだ。その少年たちは十勝の出身だけではない、上述の江賀寅三をはじめ(彼は長万部の出身である)、白老や沙流川筋の少年たちの名前もそこにはある。学校の、おそらく宿題のような形だったのではないかと推測されるが(「國の宝」と題されたものが多い)、そこで子どもたちが苦心してアイヌ語で、あるいはアイヌ語と日本語の併記の二言語テキストとして、そして時には日本語だけで、地域ごとのアイヌ語を比較し、日記をアイヌ語でつけ、伝承を記録している。日記といえば、江賀寅三少年は、ジョン・バチェラーとアイヌ語で話した!と、その内容をアイヌ語で丁寧に記録して提出したりもしている。その躍動するアイヌ語が、図書館の片隅にしまい込まれたままになっていて、現在の若い世代のアイヌ語を回復しようとする人たちと断絶されたままになっている。

 2022年から2023年にかけては、知里幸恵の没後100年から『アイヌ神謡集』刊行100年という、大きな節目の年を迎えている。と同時に、知里幸恵を一人にしないことも大事なのだと思う。同時代の社会と、そこでの若い人たちのアイヌ語を記録するネットワークのなかに知里幸恵を位置づけなおす。そのためにも、吉田巌資料のアイヌ語記録部分は本当に本当に大事なのだと思う。

アイヌ語の口承物語研究を進める際の「文献学的課題」(その4)フィールドワーカーとしての萱野茂氏の姿の解明に向けて

 萱野茂さんは沙流川の二風谷が生んだ偉大な知識人で、アイヌの文化についての収集や記録作業に長年にわたって尽力し、とても貴重な文化遺産(ヘリテージ)を後からの世代に残した。アイヌ語とアイヌ語で語られた口承の物語についても同様で、『萱野茂のアイヌ語辞典』、『ウウェペケレ集大成』、『萱野茂のアイヌ神話集成(10巻)』、(上田トシさんとの会話記録である)『凍ったミカン』、『チセ・ア・カラ――われら家をつくる』などなど、伝承されたアイヌ語も、そして自らのアイヌ語も記録として遺した。それは今の若い世代がアイヌ語を学び、取り戻すにあたって不可欠の記録群である。

 しかしながら、知識人として発言や発表される成果に注目が集まってきた一方で、調査者(リサーチャー)としての萱野茂さん、あるいはフィールドワーカーとして萱野茂さんの姿は、それほど明らかになっているとは言えない。このことが見えてきたのは、平取町と千葉大学で共同で取り組まれた事業で、『アイヌ語の保存・継承に必要なアーカイブ化に関する調査研究事業 第2年次(北海道沙流郡平取町)調査研究報告書』に結実した作業であった(詳細については中川裕(2016)「千葉大学におけるアイヌ語資料の整理と公開」を参照)。これは、萱野さんが平取町からの委託で録音した24本のオープンリールテープを聞き起こし、公開する取り組みであり、私(藤田)も参加していた。現在は、二風谷アイヌ文化博物館のホームページで、テキストと音声が公開されている。この音声を聞いていると、和人の研究者が調査者として聞き取り調査をしているのとは、全く性格の異なる調査がそこにある。萱野さんの訪問を受けているおばあさんたちは、自分たちの文化を共有する後続世代の萱野さんに対して心から楽しんで言葉を発しており、口承文芸を共有する温かい場がそこに生まれていたことが分かってくる。

 しかし、これは平取町だけで萱野茂さんが展開していた活動ではない。北海道教育委員会(道教委)が出している6冊の報告書『アイヌ民俗文化財緊急調査報告書(無形民俗文化財1~6)』(1977-1981)を見ると、道教委のこの委託事業によって、萱野茂さんは平取町でも一層広い範囲を歩きまわり、また西は鵡川町、室蘭市、そして門別町、穂別町、新冠町、静内町、様似町、三石町、浦河町、鵡川町、室蘭市、さらには十勝まで足を延ばしている。この記録が一体どこにあるのか、それとも失われてしまっているのかが、私は長いこと分かっていなかったが、その相当な部分が北海道立図書館で電子化されたCDの形で「アイヌ民俗文化財伝承記録CD」として所蔵されており、これが道立図書館の蔵書検索からも確認できることが分かった。(北海道立図書館のこの資料の存在は阪口諒氏のご教示による。)この資料はアーカイブ公開などもされておらず、かつCDの内容と道教委の報告書の内容がどのように対応し、どのように対応しないのかの内容目録の検証もなされていないようだ。

 しかしこれは、まさにフィールドワーカーとして、自らの出身地域を越えて広範囲を歩き回った調査者(リサーチャー)としての萱野茂さんの姿を示していると言えよう。この道教委の記録では、平取町内だけでもかなりの話者の下を訪れて記録がなされていることが伺え、記録としても貴重な価値をもっていることは論をまたない。と同時に、足を使って各地の伝承者を尋ね、言葉を交わす萱野茂さん自身の姿もこれらの記録から浮かび上がってくるはずなのだ。上述のCDを聴取するだけで、勝手知ったる旧知のおばあさんたちとの話し方と、初めて話を聞かせてもらう他の地域のおばあさんたちとの話し方とがどのように違っていたか、口承文芸を聞かせてもらう際にどういう文脈でお願いしているか、語り終えた際にその場に同席している人たちとどのようなコメントを短く挟んでいるか、そのような姿と佇まいとやり取りとが生き生きと浮かび上がってくるのだ。

注1――ただし興味深いことに、十勝での萱野茂氏の録音は、道立図書館の検索結果から確認できない。先の「アイヌ語の口承物語研究を進める際の「文献学的課題」(その3)」で指摘したように、『アイヌ民俗文化財緊急調査報告書(無形民俗文化財6)』(1981)の辻秀子氏による十勝での録音記録も、道立図書館の検索結果に全く現れてこない。この部分だけがぽっかりと抜け落ちていることになる。これは何が起きたのだろうか。

注2――これは相当に規模の大きい資料群であり、全体を聞くことは全くできていないが、テープによってはかなり劣化した状態でデジタル化されたものが入っているようだ。 これは、現在の技術でより良いデジタル化が可能かどうかも含め、早期の注目と対処がなされた方がよいのではないかと思われる。

 そしておそらくは、この道教委の録音資料だけではない。『炎の馬』、『カムイユカラと昔話』、『アイヌと神々の物語』 など、萱野さんによって日本語で紹介されたアイヌの物語群、そして特にカムイユカㇻ(神謡)ではないウエペケㇾ(散文説話)の方には、アイヌ語の原文が付されておらず、また神謡も含めて音声が公開されていないものが多い。これらの物語のどこまでが、上の平取町や北海道教育委員会の調査に基づいており、どこまでが、それ以外のタイミングで録音されたものなのかが重要になるだろう。そのような点の検証も進んではいない(なお、阪口諒(2018)「萱野茂氏によるアイヌ民話記録一覧」(『千葉大学大学院人文公共学府研究プロジェクト報告書』第325巻)はその点に向けた重要な一歩である)。すなわち、萱野茂さんの膨大な仕事は、いまだにその全貌が明らかになっていないのだ。

 仕事の全貌が明らかになっていない結果として、萱野さんの年長世代のアイヌの人たちとのネットワークや、そこでのやり取りの内容や、そこでの萱野さんの佇まいなども見えないままになっている。これはもったいないことでもある。結果から過程へ、アイヌ文化を広める役割への着目からアイヌ社会のなかでのリサーチャーとしての姿へ。世界的に「調査方法(リサーチ・メソッドとメソドロジー)への関心が高まり、以前の時代に行われた調査方法(例えばラテンアメリカの参加型アクションリサーチ)の掘り起こしが進む状況で、この点の重要性は高まりつつある。萱野さんのこのようなリサーチャーとしての等身大の姿は、やはり明らかになっていった方が誰にとっても良いのではないかな、と私は思っている。そして、それは逆接的ではあるが、丁寧な資料の掘り起こしと検証と公開を通じてしか実現できないことなのだ。

viernes, 7 de enero de 2022

【アイヌ語口承文学の名言その5】こっちの水はあ~まい、かな?

鹿戸ヨシ(高橋規訳注)「新冠川を遡上しなくなったサケ神の物語」 『アイヌ民話』(アイヌ無形民俗文化財記録慣行シリーズ1、北海道教育委員会、1988年、pp.79-95。[新冠のアイヌ語] 

ふだんは人間とは異なるカムイのくに(カムイ モシㇼ)に住んでいるカムイたちにとって、人間のくに(アイヌ モシㇼ)はたいへん魅力的な場所であり、ぜひとも訪れたいと思っているのだという。この物語の主人公であるサケとその仲間たちも、そうして人間の村へと川を遡上しようとする。

サケヘ(リフレイン)V=ciw pererun pererun
V ci=utarihi / V ci=ruppakehe / ci=rupkesehe / V [o] tup terke / [o] rep terke / V arki=as ayne / V Pipok putuhu / V arki=as ruwe ne / V ci=utarihi / konkane pisakku / sirokane pisakku / V sapte ki wa / wakka sapte (p.87、[o]は音節数を埋めるための虚辞、また表記を一部変更した)
(私たちの仲間は 群れの先頭が 群れの末尾が 二つの跳ね 三つの跳ね(して) やって来たあげくに 新冠川の川口に やって来るのです。 私たちの仲間は 黄金の柄杓 白銀の柄杓を 取り出して 水を汲んで)

このサケの群れは、先に鵡川に行き、厚別川にも行き、水の味がまずい(ケラハ ウェン)と言いながら、新冠川へとやって来る。ここでは味が良い(ケラアン)と言って遡上していく。現実には鵡川も厚別川もサケが上るみたいなので、これはある意味「おくに自慢」の物語であって、語り手の人が新冠の人だから新冠川が選ばれることになるのではないかなと思う。

さて、サケの方で人間とその世界を選んでくれたとしても、人間の側の応対がまずくてはいけない。突き銛(マレㇰ)でとり、柳で作った魚打ち棒(スス イサパキㇰニ)で魚の頭を叩いていれば、自らのカムイとしての格が高まる(ヤイカムイネレ)と言って、魚たちはたいへん喜ぶ。しかし、 突き銛(マレㇰ)でとりつつも、その後で草刈り鎌(イヨㇰペ)で叩いてしまうと、これは本来は魔物(ウェンカムイ)を叩くのに使うものなので、泣きながら腹を立てて戻って行ってしまい、それ以降群れが遡上しなくなってしまうのだという。

こういう、ある種の二部構成の物語(サケが遡上する川を選ぶ部分と、人間によるサケの扱い方を比べる部分から成る)は、一つの話で二回おいしいということかなと、私は考えている。さらには、カムイから見てどの人間の生活世界(川筋)を選ぶかという部分と、人間から見てカムイをどう扱うかという、対称的・対照的な構成になっているとも言えよう。このような物語の組み立ての妙を味わいたい。



 

martes, 4 de enero de 2022

【アイヌ語口承文学の名言その4】往来しているのは人間だけじゃなくて、背後を守るカムイも一緒に往来しているのだから

黒川トヨ(藤村久和訳注)「欠けた小鍋の教えで立身した少女の話」 『トゥイタㇰ(昔語り)3』北海道教育委員会、2000年、pp.143-186。[沙流のアイヌ語(貫気別)]

地域の有力者が亡くなった際には、周辺の村々からも弔問客が訪れる。その際には、貧富の差が露わになり、貧しい身なりの者たちが心無い言葉をかけられるということもあったのであろう。しかしながら、そのような人間の扱いに差をつけることを戒め、全員を迎え入れようとする言葉もあるのだ。次にとりあげるのは、そのような言葉である。

"nep ne wenkur hene nep hene yakka itupesnu wa i=koasuttasa sir ne wa aynu patek apkas sir ka somo ne. kamuy ka itura kane wa apkas ne kusu iteki neno hawasnu neno hawsakka ahun ahun"
(どんな貧乏人でも(どこの)誰であっても死者を悼んで我々の所に弔問に訪れているのであって、人間ばかりが往来しているのではない。憑神さまも人と一緒になって往来しているのだから、決してそんなことを言わずに、そんなことを言わないで、[家の中に]入った入った)(p.158)

この散文説話(ウエペケㇾ)の主人公の娘は貧しい暮らしの中で育っていたが、川下に住む長者の家の青年が、鹿の片足を分けてくれるなどして、彼女たちの生活を助けていた。その青年が急な病で亡くなったというので、主人公の娘が一族とともに弔問に訪れている場面である。それぞれの人に憑いているカムイがいて、カムイは力をもち、敬うべきものでもあるから、人を暮らしぶりや外見だけで判断してはいけない、というようにこの言葉を受け取ればよいだろうか。

ちなみにこの物語、主人公の娘がその弔問で訪れた家で困っているあいだに、戸口にたくさんある鍋の一つが動き出して、その鍋が娘に向かって話し出す。その鍋が教えてくれるには、実は長者が悪気があってではないが家の外にゴミの山を作っていて、そこに魔物(アㇻウェンカムイ アㇻカミアㇱ)が潜り込んでいて、その魔物(女性らしい)が青年の魂(ラマチ)を奪ってゴミの下に隠しているのであった。娘がこのことを述べ立て、村の若者たちがそのゴミの山を片づけると、実際に長者の青年の魂の玉(タマヌㇺ)が出てきて、それで彼を生き返らせることに成功し、娘はたいそう感謝をされ、この青年と結婚することになる。

このようにカムイとこの世界で直接会話をすることのできる娘は、ただものではない。通常は、人間はこの人間のくに(アイヌ モシㇼ)では、夢を通してしかカムイとコミュニケーションをとることはできないことになっているからだ。後から、この娘が幼い頃に水のカムイ(ワッカ ウㇱ カムイ)の遊び相手となっていたのであり、カムイの血筋を引く者として水のカムイに目をかけてもらっていたのであったことが明かされる。件の青年もカムイの血筋を引く者であった。娘は、水のカムイからカムイの肌着(カムイ モウㇽ)を授けられ、巫術(ウエインカㇻ)の能力をもって村で大事にされて生きていくことになる。

散文説話では、上に示したようなある種の社会生活の指針のような言葉が出てきておもしろいが、同時にこの物語はとても独特な展開を見せている。研究者のあいだでも話題になっているが、沙流川筋でもこの黒川家の一族には、とても不思議な物語が伝承されていたことが次第に明らかになってきており、まだまだアイヌ語の物語世界への興味は尽きない。



sábado, 18 de diciembre de 2021

【アイヌ語口承文学の名言その3】悲しさと悔しさにジタバタする

 (出典――四宅ヤエ「兄と夫を風の女神からとりもどしたある女性の話」藤村久和・若槻亨訳注『四宅ヤエ媼伝承――アイヌの神々の物語』藤田印刷エクセレントブックス、2018年。)

感情と行為のとても具体的な描写が強く印象に刻まれる、そのような語りもある。

この白糠の四宅ヤエさんが語った神謡(オイナ)では、主人公の女性が夫と兄と暮らしていて、この夫と兄は、狩猟で蓄えた鹿と熊の毛皮をもって交易(ウイマㇺ)に出かけていく。しかしこの二人はずっと帰って来ないので、主人公が心配して待っていると、ある日――

V [ay] pirka cip / V [ay] nisor_ ta / V [u] yan h_ike / V an=sikkote / V inkar=an h_ine
立派な舟が 空中を 陸に向かってやって来るのを 私は目をすえて じっと見ていると
(pp.180-181:Vはこのオイナの折り返し句でrera rera suy suy、[ ]内は音節数を合わせるための虚辞、表記と日本語訳を若干変更している)

そこには夫と兄が乗っていて、さらに「神なる淑女(カムイ カッケマッ)」がいる。このカムイの正体は物語の中でアイヌ語で示されてはいないが、この神なる淑女が風のカムイであることが、折り返し句や藤村さんの解説から分かる。このカムイが、立派な首飾り(カムイ イムタッ:四宅ヤエさんによれば「タマサイ」ではなくこのように物語では言うのだそうだ)と引き換えにこの二人を自分にくれるように、主人公の女性に言う。そして、女性がこれを拒否して、首飾りをバラバラにして投げ返すと、その舟は消えてしまう。続いて、この主人公は悲しさと悔しさにジタバタする――

V yup utari / V oya ipor / V an=ciskoterke / V an=tekporapora / V an=teksuyesuye / V ta sirki wa / V [u] mun kaske peka / V karkarse=an kane / V otappa aine
兄たちの 別人のような顔色に 私は泣き転がり 私は両手をばたつかせ 両手を空で振りまわし そのようにして 外庭の草原を 転げまわり 砂塵を巻きあげたあげくに
(pp.184-185)

情景が絵として目に浮かぶような表現だ。同時にここは、アイヌ語では、iporが兄たちの顔色なのに所属形ではなく概念形になっていたり、ciskoterke、tekporapora、teksuyesuyeのそれぞれの動詞が、自動詞でありそうなのに他動詞の人称接辞がついている(つまり直前のyup utari oya iporを目的語にとっていることになっている)のが、アイヌ語のかたちとしても気になる箇所である。

考えてみると、主人公が家を出て何かの冒険に巻き込まれ、かなりの期間家を空けてしまうという、家の外の目線から語られる物語の方が多く、家に残された側から語られる物語の方が少なくて、それで印象に残るのかもしれない。そして残された側から語られる物語の場合、夫や兄がカムイに連れて行かれてしまうことも多いのだが、さいわいこの物語では、夫と兄が無事に家に帰ってきて、主人公は元のくらしを取り戻し、夫とのあいだに子どもができ、兄も結婚して子どもができ、ということになる。



sábado, 23 de octubre de 2021

【アイヌ語の口承文学の名言その2】超強力なのに全く役に立たない「魂の入った眼座」

(出典――砂沢クラ「キンラコロポイヤンベの話」『人々の物語』アイヌ無形民俗文化財記録第三輯、アイヌ無形文化伝承保存会、1983年、pp.177-200。

osiso ka ta cise kor nispa a wa inunpe kay ne inkar wa an kusu inkar=an awa inunpe ka ta ramat un sikso an wa nep cikap ne yakka ramat oma p tan kotan ek a ranke kor inoka a=nuyekar wa an w_a siran.

(右座には家の主人が座って、炉縁へと目を向けているので、私も目を向けたところ、炉縁の上に、魂の入った眼座があって、何の鳥でも生き物(魂の入ったもの)がこの村に来たら、その姿が映し出されている様子だ。)【石狩のアイヌ語】

 

【アイヌ語の解釈】

「右座」のことをosisoともsisoとも言う。「右」というのは分かり難いが、入口にあい対してというか、上座から見て炉の右側にある座のこと。osiso ka taで「右座・の上・に」。cise kor nispaは「家・を守る・旦那さん」で、「その家の主人」という意味で様々な地方のアイヌ語で使われる表現。aは「座る」という動詞の単数形で、接続助詞のwaで後ろに繋がる。

家の主人は、inunpe kay ne inkarしている。inunpeは「炉縁」を指す。kayはおそらく位置名詞ka「~の上」がこのような形にもなるのだと思うが、十分に他の用例が確かめられない。neは格助詞で「~へ、~に」という向きを示すはたらきをする。inkarは「眺める、目を向ける」という自動詞。ここでは自動詞が使われているから、inunpe kay「炉縁の上」と動詞は格助詞でつながれなければならない。inkar wa anは「見ている」で、家の主人は炉縁の上に目をやった状態でずっといることになる(だから主人公が忍び込んでいることに気づかないのだろう)。そうすると、主人公も自然とそちらに目をやることになる。kusuは「~ので」と理由を示す接続助詞で、inkar=anは主人公の動作を示している。awaは「~したところ」を意味する接続助詞(過去または完了の助動詞aとwaが結びついたもの)。

inunpe ka taのtaは、「~で、~に」と場所を示す格助詞で、炉縁の上にramat un sik-so「魂・~がついた・目の・座」という物がある(an)ことになる。nep cikap ne yakkaは「何の・鳥・である・~ても」という、文法用語としては<譲歩>を示す表現。ramat oma pは興味深い表現で、「魂・~に入っている・もの」で「魂が(そこに)入っているもの」ということになり、浅井亨さんは「動物」とこれを訳していて、どうもそういうことなのだろうと私も思っているが、十分に他の用例が確かめられない。

この続くtan kotan ek a rankeには、実はよく分からないところがある。tan kotanは「この村(コタン)」なのだが、ek「来る」は自動詞なので、kotanにそのまま続くことはなく、何かしら格助詞が入りそうなものである。かつ、後ろのaは過去又は完了のはたらきをもつ助動詞で、rankeは頻繁に行われる行為を示すはたらきをする助動詞なのだが、このようにa rankeと結びついているかたちが、あまり見当たらないようである。korは「~すると」を示す接続助詞なので、とりあえず「この村に来ると」ということかな、と考えてみる。

そうすると、i-noka「その物の・形象」がnuyekarされる。ここのa=は、主人公を示すのではなく、不定人称で受け身のはたらきをしていると考えられる。nuye-karは、nuyeが「彫刻する、刻む」という意味の単語で、nuyekarで「描く」という意味になる。つまり、a=nuyekarで「刻まれる、描かれる」つまり「模様がそこに浮かび上がる」ということなのだろう。siranは視覚的な根拠にもとづく情報であることを示す動詞で、「~の様子なのだ」といった意味になる。

 

【物語の解釈】

英雄叙事詩というジャンルの物語では、一つの話のなかに興味深いアイテム(私は「マジック・アイテム」と呼んでいる)が登場することがあり、ここで出てくる「魂の入った眼座」というのは、その一つだ。これはアトゥイヤ コタンという村での描写で、この場所を語り手の砂沢クラさんは中国だと考えているようだ(p.199の注2)。

その村の村長が上の引用した箇所で出てくる家の主人であり、彼はシネン アㇱ ウシ カムイ ラメトㇰという名をもっている。浅井亨さんはこれを「一人立ち大勇士」と訳している。この者が、「魂の入った眼座(ラマトゥンシㇰソ)」という物をもっていて、それをじっと眺めている。これは村に近づいてきたものを全て映し出してしまうのだそうで、sikso「目の・座」というからには、炉縁の表面の一部に、全てを映し出す目のようになっている部分があるのだろう。われわれが考えるところの「鏡」のようなものかもしれない。このアイテムがあることで、このアトゥイヤコタンは外敵の侵入に対して強い防御の力を得ているようである。

なぜ主人公のポイヤウンペがこのアトゥイヤコタンに来ているのか。育ての兄に養われている主人公は、大きくなって狩りに行ってくるよう兄から言われ、出かけた先で鹿を矢でしとめるのだが、そこで母親がアトゥイヤコタンで切り殺されたことを思い出し、そのままでは家に帰れないと思って、アトゥイヤコタンへと風に乗って海を越えて飛んでいく。当座の通過儀礼としての<初めての獲物をとる>という行為と、歴史のなかの代々の因縁を晴らそうとするとする行為が連続するのであり、私はこれを物語の構成における「マルチタスキング」と呼んでいる。

英雄叙事詩の主人公は、昔から続く戦闘の因果に巻き込まれていくのが定番なのだが、この場合は、母親の仇をとるというのが主人公の動機になっている。父親の来歴は全く語られない。このようなかたちは、少し珍しいかもしれない。

そしてまた、おもしろいことに、この「魂の入った眼座」というマジックアイテムは、全く役に立たない。主人公は、家の主人すなわち村長に全く気付かれずに家に入り込み、その妹にかたらいて恋仲となり、急に出ていって主人に切りかかり、その先に村の全員を切り殺してしまう。その恋仲となった相手すら、最後には主人公の刀の先に引っかかって動けなくなり、その片方の乳房だけもぎとって、主人公は獲物の鹿を背負って家に戻ってしまうのだ。主人公がKinrakor Poyyanpe(キンラコㇿ ポイヤンペ)と呼ばれる所以であり、これを浅井亨さんは「激情若大将」と巧みに訳している。ちなみに、件の女性は、家に戻ってからポイヤンペが天に向かって放ったramat un ipe op(ラマッ ウン イペ オㇷ゚:魂の入った人喰い槍)に刺さって天から下りてきて、主人公と兄とともに暮らすことになる。

全てを見通せる監視カメラのような眼座(鏡)が存在したとしても、英雄叙事詩の主人公ポイヤンペの強さの前には役に立たないということに、私は少し嬉しい気分になる。


jueves, 21 de octubre de 2021

【アイヌ語の口承文学の名言その1】魔物の合体に継ぐ合体と、数字の「6」

(研究のためのノートを取っているのですが、せっかくなのでその断片を公開しながらいきます。)
出典:「トミサンペッの女がトゥスをして許婚を蘇生させた話」『冨水慶一採録四宅ヤエの伝承――歌謡・散文編』四宅ヤエの伝承刊行会、2007年。

pp.128-129
repunkur atuy yaunkur atuy, atuy utur
atuy asam ta atuy rasanpe iwan rasanpe sinep ne yaykarika
otasaw ... sawrasanpe [ota sam ta ota rasanpe?] iwan rasanpe sinep ne yaykarika
na ota rasanpe ne wa atuy rasanpe sinep ne yaykarika menoko ne an ike
atuy corpok ta pirka cise kor wa an ike

沖の人の海と陸の人の海、海のあわいに
海の底で海の魔物、六つの魔物が一つになって、
浜辺で浜の魔物、六つの魔物が一つになって、
それからまた、浜の魔物と海の魔物が一つになって女になったもの、
海の下で綺麗な家をもち、そこに住んでいるものが

 

【アイヌ語の解釈】
repunkurはrep-un-kur「沖・に住む・人」、yaunkurはya-un-kur「陸・に住む・人」で、レプンクㇽは海の向こう側の島に、ヤウンクㇽはこちら側(北海道)の島に住む人を指すようだ。repunkur atuyは海の向こう側、yaunkur atuyは海のこちら側ということになる。uturは「あいだ、あわい」を意味する位置名詞なので、atuy uturとは向う側の海とこちら側の海の、ちょうどあいだくらいの場所ということになる。人間が住む世界からは、ちょうど一番遠い場所になる。

asamは「~の底」を意味する位置名詞なので、atuy asam taで「海・の底・に」となる。rasanpeはなかなか見慣れない単語だが、『アイヌ語方言辞典』で美幌の菊池クラさんがto rasanpeで「湖の悪魔」だとしたという記録があり、「魔物、悪魔」という意味の道東(の一部?)で用いられる単語なのだろう。atuy rasanpe「海の魔物」とiwan rasanpe「6つの魔物」は同じ存在を指していて、対句的に並んでいる。yaykarikaもなかなか見慣れない単語だが、田村雅史さんが解釈しているように「変身する」でよいのだと思う(様々な地域のアイヌ語でこれはyaykarと言う)。sinep ne yaykarikaで「一つ・に・変身する(合体する)」となる。
(注――ちなみに同じ四宅ヤエさんは別の物語で、an=yupi utari / oman rukoci / an=yaykarika / an=nospa ki wa / paye=an ike(私の兄たちが 行った足跡を まわって 追いかけて 行って)という使い方をしている(『冨水慶一採録四宅ヤエの伝承――韻文編2』四宅ヤエの伝承刊行会、2012年、「第8話 オタスッツの男の自叙――キムンナイの長者を危篤から救ったオタスッの末っ子の物語」p.187)。yay-kari-ka(自分・回る・~に…させる)という語構成を考えると、後者の使われ方の方がこの単語はしっくりきそうだ。)

その後ろでも四宅ヤエさんは言い迷っているが、[ ]で補われている表現が対句としても正しそうで、ota sam ta「浜・辺・で」となり、ota ranpe「浜の魔物」とiwan rasanpe「6つの魔物」が同じ存在を指していて、対句的に並んでいる。naは「まだ」を意味する副詞、ne waは二つのものを結びつける言葉でota rasanpe「(6つが1つに合体した)浜の魔物」とatuy rasanpe「(6つが1つに合体した)海の魔物」を結びつけている。これがもう一度sinep ne yaykarika「一つに合体し」、menoko ne an「女性・になって・いる」、ike「そういうもの」となる。

corpokは位置名詞で「~の下」を意味する。atuy corpok ta「海・の下・に」pirka cise kor「きれいな・家・を持つ」、そしてkor wa anで「持っ・て・いる」となる。上の...menoko ne an ikeと、ここの...pirka cise kor wa an ikeが並べられて、同じものを指している(同格になっている)。

 

【物語の解釈】
アイヌの物語の世界では、カムイがしばしば人間に横恋慕をして、魂を奪い取ってカムイのくに(カムイ モシㇼ)で結婚しようとする。ここでは、主人公の女性(シヌタㇷ゚カウンマッ)の許婚のイヨチウンクㇽに、魔物の女が横恋慕をする。そして、その魔物の女性は、複数の魔物が姿を変えていることになっているのだが、その過程が合体に合体を継ぐすごいことになっている。海の底で6つの魔物が、浜辺で6つの魔物がそれぞれ合体して、その2つの魔物がさらに合体して1人の女性(魔物)になるということで、合計して12の魔物からなる女性というのは、聴くからにたいへん恐ろしげで強力な存在である。

このようにアイヌの世界においては、「6」という数字を基盤として世界の様々なことが組み立てられており、この物語で「6」が出てくるのは魔物の数だけではない。この魔物の女性が横恋慕した相手の魂を奪い取ろうとするのだが、この魂も6つの「小さな玉」からなることになっている。魔物の女性に魂を取られていく主人公の許婚イヨチウンクㇽは、病になり床に臥せって、息も絶え絶えになる。この魂が5つまで取られてしまい、あと1つという絶体絶命の窮地に陥る――
na sine pon tama uk ciki ray ciki ramaci uyna kuni yaysanniyo(さらにもう一つ小さな玉を取って(イヨチウンクㇽが)死んだら、その魂を取ってやろうと考え)(p.129)
アイヌ語を見ると、6つあるものはpon tama「小さい玉」であり、これが6つ集まってramat「魂」を構成しているらしい。ちなみに、『四宅ヤエの伝承』における日本語の訳では、この両方が「魂」と訳されている。

主人公の女性シヌタㇷ゚カウンマッは、これにどのように対抗しようとするか。実は、この主人公はトゥスとアイヌ語で呼ばれる巫術の力をもっており、床に臥せっている許婚の病の真の原因が魔物の女性であることを見通し、魂を取り返しに行く。巫術で見通すと、目の前がパッと開ける感じがするらしい――
tusu=an kane paye=an ine, ayne inkar=an ike, an=siketoko maknatara(トゥスをしながら進み、しばらくすると、私の目の前がぱっと開けて、次のような様子が見えてきました)(p.128)
このように、この物語についてはトゥスについての興味深い描写もある。

そして、シヌタㇷ゚カウンマッは奪い取られた許婚の小さな玉たちを取り返し、許婚イヨチウンクㇽのもとに行き口から飲ませる。それによってイヨチウンクㇽは活力を取り戻し、主人公の女性は無事に結婚を実現し、幸せな生活を送ることになる。このように、女性同士の巫術対決は、アイヌにとっての病いと<いのち>のあり方を垣間見せてくれるのだ。

参考――
「道東のアイヌ語テープ大量発見――白糠の故四宅さん40年前録音」『北海道新聞』2007年3月26日
(URL: https://blog.goo.ne.jp/ainunews/e/b7677dd3aa012540afd9a948335d9dfa)



jueves, 23 de septiembre de 2021

アイヌ語の口承物語研究を進める際の「文献学的課題」(その3)十勝のアイヌ語の録音資料

(2022年1月27日追記、2023年10月1日再追記)

 一つ前のエントリーにも記したように、ひょんなきっかけでここ数年は、十勝のアイヌ語の筆録資料や録音資料を再び世に送り出す取り組みに加わることが増えた。そして、この地域のアイヌ語について、いかに公になったアイヌ語の記録が少ないかを痛感することとなった。この地域のアイヌ語については、澤井春美、切替英雄、高橋靖以各氏の重要な仕事が重ねられてきたが、これはほぼ、沢井(澤井)トメノさんただ一人との協働作業によるもので、またテキストとして公刊されているものについても、元となる音声にアクセスすることができない。(沢井トメノさんについては、逆に、音声が聞けるもので、その音声が文字に聞き起こされて公開されていないものもある。)

 沢井トメノさんよりも前の世代の、この地域のアイヌ語の話し手の人たちからの録音記録が本当は存在しているらしい。このことは、一つ前の「アイヌ語の口承物語研究を進める際の「文献学的課題」(その2)」で言及したNHKの過去の記録事業にも見てとれるのだが、ここでは、この十勝地域で過去になされたことが分かっている、個別の研究者による訪問と録音の取り組みをまとめておきたい。

1)辻秀子氏による録音資料

 帯広畜産大学で教員をしていた辻秀子氏は、十勝のアイヌの人たちの中で調査をしていて、その調査を基にした著作を発表してきた。本人は既に亡くなっているそうだが、この辻秀子氏が調査をしたその記録が本人の没後にどうなっているのかは、明らかにされていない。

 以下の文献に、辻秀子氏の録音調査の概要が記されている――
辻秀子(1984)「十勝アイヌの伝統文化に関する民族学的研究」『帯広畜産大学後援会報告』第12巻、pp.48-52。
(帯広畜産大学学術情報レポジトリPermalink:http://id.nii.ac.jp/1588/00003651/)
ここで辻氏は以下のように記している――

十勝アイヌに伝わる詞曲, 昔話, 歌謡, 祈詞などの口誦伝承をテープに収録し, それを基に,伝承構造, 言語, 世界観の分析を行なって, 他地域との共通性と変異を体系的に整理する。伝承者として, 十勝に在住する古老(田辺トヨ, 山川シマ, 沢井トメノ, 山川弘)の4名にお顕いした。

(同、p.48)

そのより詳しい内実については、さらに以下のような説明がある――

十勝アイヌに伝わる口誦伝承のうち,43編をテープに収録した。十勝の言語は日高,胆振などとかなり相異があり,アイヌ語辞典に掲載されていないことが多く,ー語ー語.を古老に問いながらの翻訳となった。サコロベ(英雄詞曲) 2編,オイナ(神謡) 1編,ツイタク(昔話)10編,ウポポ(歌謡),ャイサマ(抒情民謡).イフムケ(子守歌)などの歌30曲を収録した(以下略)

(同、p.50)

これはかなりまとまった量の録音記録であり、また、実際に辻氏がこれらの伝承者を含めた当時のアイヌ語の知識があった人たちにアイヌ語の言葉の意味を確認しているとすれば、その確認の記録自体も貴重な情報である可能性が高い。そして、上の記述を読むかぎりで、辻氏も自らの録音記録がたいへん貴重なものであることを十分に認識していたようである。これらの記録は一体どこにいってしまったのであろうか。

 さて、上の証言とは別に、以下の文献からは、辻秀子氏による十勝地方のアイヌ語の物語や歌の録音の記録が、北海道教育委員会の「アイヌ民俗文化財緊急調査」の一環として取り組まれていることが分かる――
北海道教育委員会編(1981)『アイヌ民俗文化財緊急調査報告書(無形民俗文化財6)』北海道教育委員会。(該当箇所はpp.75-92)
これが、上に示した辻氏自身が述べている録音資料と同じものなのかどうかが、まず一つのポイントになる。二つの文献を読み比べて検討してみると、資料の内訳や規模はおおむね符合しているように見えるのだが、伝承者の一部の氏名が符合していない。結果として、はっきりしたことが分からないようだ。

 さて、この「アイヌ民俗文化財緊急調査」において録音された記録の多くは、その複製が北海道立図書館に「北方資料」として所蔵されているが、不思議なことにこの辻秀子氏の録音資料はその中に見当たらない。このあたりの北海道教育委員会と北海道立図書館の資料管理と整理の状況については、どうも記録が見つからず、どのような経緯と現状であるのかが把握しきれない。

 さらには、北海道立図書館の北方資料で「アイヌ民俗文化財伝承記録テープ [録音資料] [204]」から「同[229]」にかけての記録は、主人公がオタストゥンクㇽやオタストゥンマッ(オタスッ人やオタスッの女)であるものが多い。そうすると、十勝地方のものであるか少なくとも広く道東のアイヌ語の記録ではないかと思われる、私は最初これが対応する辻秀子氏の記録なのかと思ってみたのだが、物語の内容が上の道教委の報告書と合致せず、また道立図書館の所蔵記録では記録者も語り手も明らかにされていない。これはこれで一体どのような記録なのであろうか。 あらためて、これらの記録は十勝のアイヌ語や広く道東のアイヌ語にとって非常に重要なものであろうと思うのだが、その存在・所在や詳細が確認できない残念な状況にあると言えそうだ。これらの記録の存在と整備のされ方いかんで、後の若い世代のアイヌの若者たちの言語と文化の継承活動を取り巻く状況は、大きく変わってくるはずだ。 

(追記:その後、この辻秀子氏による録音資料については、複数の経路から寄贈がなされているらしいことが確認できており、失われるという事態は回避されたようです。)

2)斎藤米太郎・明両氏による録音資料  

 齋藤米太郎は、沼田武男と並んで、吉田巌が自らの弟子であり後継者であると認めた人であり、吉田巌自身がそのことを書き記している。この点についての吉田巌による記述としては、とりあえず私は手元にある――
吉田巌(1959)『愛郷往來――東北海道アイヌ古事風土記資料』帯広市社会教育叢書No.5、帯広市教育委員会。
を参照しているが、他にももっと記録があるだろうと思う。

 この斎藤米太郎氏は、息子の明氏とともに、道東のアイヌの古老たちを訪問して、オープンリールのテープに録音をする取り組みを続けてきた。この録音資料は、以下にその目録が作成され、公開されている。
アイヌ文化研究会(2009)「『東北海道のアイヌ古謡録音テープ』の内容調査研究」『アイヌ関連総合研究等助成事業研究報告』第8号下巻資料編、pp.273-377。
この目録には話者の情報などが――プライバシー配慮の意図で――記載されていないが、テープと併せて丁寧な記録のノート2冊が残されていることが述べられている。

 この録音資料は、平成18年度(2006年度)に斉藤明氏から帯広市図書館に寄贈されたとの記録があり(帯広市図書館『図書館要覧2007』p.21を参照)、この音声記録はデジタル化され、帯広市図書館の館内で視聴できるようになっているようだ(アイヌ文化研究会2009、p.277)。この館内利用の音声の部分的な書き起こしを用いてなされた研究に、高橋(2016)がある(詳細な書誌情報については、一つ前の「その2」のエントリーを参照)。

 この録音資料には、様々な歌が記録されているとともに、数は少ないが神謡(オイナ)、散文説話(トゥイタㇰ)、英雄叙事詩(サコㇿペ)が記録されている。これらの長い物語については、上の目録(アイヌ文化研究会2009)には、その聞き起こしが冒頭一部分しか掲載されていない。
(ちなみに、十勝地方のアイヌ語の口承の物語には、英雄叙事詩にサコㇿペとユカㇻの二種類があったとする記録が幾つかある――『[昭和61年度]アイヌ民俗文化財調査報告書――アイヌ民俗調査  Ⅵ  (十勝・網走地方)』pp.68-69を参照。)
まず資料として帯広市図書館に所蔵され、利用可能な形となったこと自体が大きな前進である。しかしそこから、聞き取りと訳注の作業を経て、音声と比較可能な形で全体をアーカイブ公開するという課題が取り組まれなければならない、と言えるだろうか。

 研究者――ここでは狭い意味で大学に所属する研究者ではなく、広く調査・研究に関心をもつ人を指して使うことにしよう――が、自らの生涯で取り組んで集めた記録は、その研究者自身が自らの生涯のうちに全体を整理し、公開できる量のものでは到底ないことに、後から続く世代の私たちは次第に気づきつつある。アイヌ語についてかつてのようなフィールド調査ができなくなってしまった現代において、これらの記録をもう一度人々が使える状態にもっていくこと、そしてその前段階としてその資料の詳細情報の整理・対応づけを行うことは、これからのアイヌ語にとっての「基礎研究」として、大きな重要性をもつ。そこでは、記録と収蔵に関わってきた各組織・機関が、アイヌ語の知識をもつ人間を登用し、これらの課題に取り組んでいくことが必要になるだろう。

※このシリーズは「その5」まであり、もちろん本来はもっとたくさんの課題があるはずなのですが、今の私自身の研究のなかで重要で意識していることをまとめるという目的の下で、私が意識している部分を書きとめておきます。この問題はややこしく、意外と状況を把握すること自体に時間がかかるので、書き記しておくことには何らかの意味があるだろうと思っています。

アイヌ語の口承物語研究を進める際の「文献学的課題」(その2)NHKの録音資料

 アイヌ語は北海道の南側の地域の言葉が、そのアクセスのしやすさもあって、昔からよく知られてきた。私もその例に漏れず、千歳や沙流のアイヌ語を学びながら、幌別の知里幸恵や金成マツのアイヌ語に少しずつ親しんでいった。でも、本当はアイヌ語はずっと多様で、特に北海道東部のアイヌ語は、言葉や口承文学の歴史を知ろうと思ったときにもとても重要なのだが、一つの地域に実質的に一人の話し手しか知られていないような状況が、ずっと続いてきた。

 でも本当は、もっといろいろとあるはずなのだ。例えば私は最近は帯広の(十勝地方の)アイヌ語で、家族のなかで大事に残されてきたような筆録資料や、ふとしたきっかけで語り残された録音と関わることが続いている。我々研究者がその翻刻や聞き起こしに関わることが、それらのノートや録音が伝承される過程へと取り戻される手助けをしていることになるとしたら、それは意義の大きい関わり方だなと思う。

 我々のそのような一つ一つの仕事は、しかし、より大きなその地域のアイヌ語の言葉の使われ方の記録があって、かつそれが参照できるようになっていて、はじめてその精度を高めていくことができる。

 そこで重要になってくるのは、公共放送媒体がかつて記録した音声の資料だ。特にNHKが第二次世界大戦後のすぐの時期(昭和22年(1947年)と昭和23年(1948年))に録音に取り組んだ『アイヌ歌謡集』第1集および第2集は、他の調査ではカバーされていないほどの地理的な広がりで、様々なジャンルの口承文学を録音・記録していたことが見てとれる。
(注:本当はここから先には樺太のアイヌ語についての記録を視野に収めるべきなのだが、そこまでは私の力が追いつかないので、残念な思いで割愛することにする。)

 この『アイヌ歌謡集』第1集および第2集は、レコード化されたものであり、その目録(地域と演唱者)が公開されている。かつ、国立国会図書館の「歴史的音源」として提携する館で視聴することができる。
これには、北海道博物館の甲地理恵氏による案内が役に立つ――
甲地理恵(2020)「「歴史的音源」で聴けるアイヌの芸能について」歴史的音源ホームページ(URL:https://rekion.dl.ndl.go.jp/ja/ongen_shoukai_16.html)
甲地理恵(2018)「アイヌ音楽の音声資料――公刊されたアナログレコード盤」『北海道博物館アイヌ民族文化研究センター研究紀要』第3号、pp.73-116。
(URL: https://www.hm.pref.hokkaido.lg.jp/wp-content/uploads/2018/04/bulletin_ACRC_vol3_04_p73_116s.pdf)

 さて、これの何が問題であり、課題なのか。

 この「歴史的音源」では、それぞれの物語の音声の冒頭3分余りしか公開されていない。したがって、そこから推察されるに、元のレコードでも冒頭3分余りしか公刊されなかったのであろう。それぞれの物語は到底3分で語りきれるものではなく、私が視聴した際にも、それぞれの録音が中途で唐突に終わってしまうことが確認できている。
ちなみに、このような悪条件下でも、以下の高橋靖以氏の仕事では、その十勝方言の録音の冒頭部分だけを聞き起こしつつ、そこに考察を加えようとしている――
高橋靖以(2016)「十勝地方におけるアイヌ口頭伝承の語り方について――関係性理論の観点から」『北海道民族学』第12号、pp.35-40。
(URL: http://douminzoku.web.fc2.com/kaishi_pdf/12/12-04takahashi.pdf)

 このような公開され方では、到底そこで語られた物語の中身を知ることができない。そして、何が分からないかというと、レコードには3分だけしか収めなかったとしても、元の全体の録音が存在していたはずなのだが、その元の録音が保存されてきたのかどうかということだ。これについて――そして私が確認できる限りで――NHKは特に何も説明をしていないようだ。

 しかしながら、どうも保存されているらしいことが伺える情報もある。アイヌ民族文化財団(当時の名称ではアイヌ文化振興・研究推進機構)は、平成24年度(2012年度)から平成29年度(2017年度)まで、「オルㇱペ スウォㇷ゚(oruspe suwop)」というアイヌ語の口承文学をアニメ化し現代の語り手が演唱するという取り組みを続けてきた。
(URL:https://www.ff-ainu.or.jp/web/learn/language/animation/index.html)
この平成28年度(2016年度)の白老地方の神謡「うさぎがはねた」の解説を読むと、次のような文言に出会う――

 同資料は全国規模の民謡調査の一環としてNHKが1947年9月4日に登別で収録した音声資料である。同じ神謡の一部を編集したものが「アイヌ歌謡集第1集 アイヌ神謡 カムイ・ユカラ』(1947年刊行)に集録されている。
 アニメ化にあたっては、未公刊音源を編集委員によって聞き起こし、テキストを作成した。

(URL:https://www.ff-ainu.or.jp/animation/files/h28_ol5.pdf、pp.5-6)

これはNHKの中に未公刊音源が残っており、アイヌ民族文化財団のプロジェクトに関わっている人々は、その未公刊音源にアクセスできていた、ということを示していそうだ。また、上記の甲地(2018)のp.81にある「通し番号1)~3)、19)の音源の一部となっている「NHK放送文化財ライブラリー」」という記述も、何かしら元の音源が存在していることを示しているようだ。

 さて、これと関連して、繋がりが分かり難くなっている点がもう一つ存在する。NHKは2016年の年末近い12月17日と12月23日に、ETV特集で「今よみがえるアイヌの言霊〜100枚のレコードに込められた思い〜」という番組を放送している。この番組についての情報は、既にNHKのホームページからは消されてしまっているが、以下のホームページで確認することができる――
https://amass.jp/82171/
https://amass.jp/82391/
そこでは、「NHKが戦後すぐにアイヌの歌や語りを録音した100枚のレコード。最新の復元技術で音がよみがえった」という説明がある。これが放映された当時は、談判(チャランケ)の音声が記録されていて、それを北原次郎太さんや当時の「担い手事業」に参加する若い人たちが練習しているといった場面に関心が向いていたが、これには果たして『アイヌ歌謡集』の元録音が含まれているのだろうか。このETV特集では――私が覚えている限りではあるが――そこの対応関係も特に説明はされていなかった。

 NHKはその後も、1961年から1964年まで「アイヌ伝統音楽収集整備計画」事業を行っており(甲地2018、p.87)、これは以下の書籍とLPレコードで刊行されている――
日本放送協会編(1965)『アイヌ伝統音楽』日本放送出版協会。
さて、この書籍をみると「収集結果は、22市町村、68地区、273名から、1,987曲を収録し、この中からさらに原形として重要な440曲を抽出掲載した」とある(同「はしがきと凡例」を参照)。これも全体像が明らかになってはおらず、元の録音がどのように保存されているのかも分からない。

 本来、このNHKの調査に加わったアイヌの人々は、自分の言葉が後世まで残り、伝えられてほしいと願い、協力をしたのではないかと想像する。だとするならば、NHKはこれらの音源の所在と詳細を明らかにしつつ、どのようにアーカイブ化を進めていくか(あるいは既存のアーカイブ化の取り組みに加わり、協力するか)を定め、公けにするべきではないのだろうか。将来に向けて、アイヌ語がそれぞれの地域で取り戻されることがあるとすれば、そのためにはこれらの音源を使えるような形にしていく、地道な土台の整備がどうしても必要である。

付記――STVとHBCによる音声記録

 公共放送媒体が記録したアイヌ語の音声ということでいえば、札幌テレビ放送(STV)が1970年から1978年に録音した音声記録が、なぜか国立民族学博物館(「みんぱく」の方)に所蔵されていることが知られている。これは、以下の記事で概要が報告されている――
中川裕(2009)「アイヌ語の声のアーカイブへ――共同研究「アイヌ語を中心とする国立民族学博物館所蔵北方諸言語音声資料の分析」」『民博通信』第126号、pp.20-21。
この民博が所蔵するSTVの音声記録についても、この概要調査が行われたまま、それを公開するための取り組みへとつなげられることはなかったようである。唯一の例外は、その中の鍋沢元蔵氏の筆録ノート5冊で、これは遠藤志保氏の尽力により、以下の報告書として公刊されている――
中川裕・遠藤志保編(2016)『国立民族学博物館所蔵鍋沢元蔵ノートの研究』国立民族学博物館調査報告第134号、国立民族学博物館。
また、この音声記録についても、例えば以下の書籍にまとめられているようなSTVの録音事業との関係は明らかでない――
荻中美枝(1978)『サコㇿベの世界』札幌テレビ放送。
この『サコㇿベの世界』に記載されている人名を見る限り、上のみんぱく所蔵の音声資料よりも広い範囲で録音に取り組まれたようで、この記録がSTVには別に存在しているようだ。また、上の中川(2009)には、みんぱくのSTV資料の中に北海道放送(HBC)の録音が、断片的で混乱の大きな形で含まれていることも記されている。このHBCの録音記録がどのようなものであったかは、まったく明らかになっていない。

 NHKを筆頭に、しかしNHKだけではなく複数の放送局が、これらのアイヌ語の記録に無形の文化遺産としての価値を認め、それが幅広い人にとって利用しやすくなるような取り組みを進めることが、望ましいのであろう。そのような取り組みを通じてしか切り開かれることのない、アイヌ語の言葉の未来が存在しているのだと思う。

後日注(2023年8月21日):当時のレコードの録音容量からして、公開されているものが録音されたものの全体であろうという教示を得ました。(ただし同時に、公開されているものにほんの少しだけ録音の先がある場合があるらしいということも知りました。)

miércoles, 15 de septiembre de 2021

アイヌ語の口承物語研究を進める際の「文献学的課題」(その1)知里真志保ノート

 もともとこのブログには、研究そのもののことはあまり書いてこなかったのだが、自分の頭の整理も兼ねて、メモ書きのようにまとめておこうと思う。

 アイヌ語については、言葉を日常生活に回復しようとする取り組みが続けられる一方で、かつて記録されたアイヌ語を利用しやすい形でアクセスできるようにするという、資料の整理と公開の課題がある。この後者を「文献学的課題」と名付けることにする(この名づけ方は、私の先生である中川裕さんを踏襲している)。いま私たちは、どのような「文献学的課題」に直面しているであろうか。

 もちろん課題はそれこそ山のようにあるわけだが、今の自分自身の研究に近い範囲で意識していることを書き留めておく。たいへんややこしいので、書き留めておくことで自分にとっても整理として役に立つのではないかと思うのだ。

 アイヌとしての出自をもち、アイヌ語の研究に尽力し、北海道大学の教授になった知里真志保(1909-1961)によるアイヌ語の記録がもつ重要性は、比較的最近になって光が当てられるようになったと言ってよさそうだ。知里真志保は、『アイヌ神謡集』を遺して早逝した知里幸恵の弟としても知られている。彼が記録したノート(「知里真志保遺稿ノート」と呼ばれる)については、まずは北海道立図書館北方資料室によって(知里真志保書誌刊行会編(2003)に再録:pp.115-129)、また続いて北原・小林・八谷(2012)によって本格的な目録作成の取り組みが行われてきた。

 この目録作成の取り組みと並行して、北海道教育委員会(道教委)がノートの整理、翻刻、刊行の取り組みを行い、『知里真志保フィールドノート』が(1)から(7)まで刊行された(2002年~2008年)。 そもそも(7)の刊行をもって、なぜそれ以降の取り組みがなされなかったのかについては、私が見ている限りでは道教委から何の説明もなされていないようだ。それと同時に、しかし、刊行時に十分に検討されなかったと思われる課題が、もっと細かいところにある。

 この『知里真志保フィールドノート』は刊行の途中で方針が何度も変わっており、(3)から(5)までが、ノートの中の口承文学テキストの翻刻と翻訳に当てられている。それがノートのどの部分に相当するかは、前述の北原・八谷・小林(2012)を見ることで確認でき、そこからは知里真志保自身が記録・整理した内容の相当部分が翻刻・翻訳されて刊行されたことが見てとれる。ここにまだどれほどのの「漏れ」があるかも、丁寧に検討されなければならないのだが、ここで示したい課題はこれでもない。

 ここで指摘したい課題、刊行にあたり十分に検討されなかったと思われる課題は、『知里真志保フィールドノート』(3)~(5)で公刊された物語群のなかに、当初金成マツが筆録した物語を別の手で清書し直したものが含まれているのではないか、ということだ。

 これがなぜ重要なのか。

 金成マツが知里真志保に宛てて筆録したノート一式は、金田一京助に宛てて筆録したノートとともに、北海道立図書館にマイクロフィルム化されて所蔵されている。この資料をもとに、蓮池悦子が詳細な目録を作成したものがアップデートされて公開されている(例えば白老楽しく・やさしいアイヌ語教室2008)。元の目録には、おそらく現物を実際に全部確認していないことによると思われる、細かいところの漏れなどがあるようだが(藤田2021でその一部を指摘したことがある)、たいへん参考になる労ある仕事であることに疑いはない。そして、この目録と公開されているマイクロフィルム資料の複写を元に、当初は蓮池悦子が『アイヌ無形民俗文化財記録刊行シリーズ』において、近年では白老楽しく・やさしいアイヌ語教室が、その一部の翻刻・翻訳・考察を行い、成果を公刊してきている(白老楽しく・やさしいアイヌ語教室2021、2020および2017:蓮池悦子氏の元の仕事にはここの文献一覧から遡ることができる)。藤田も個人的に並行した努力を少しずつ行ってきている(藤田2021および2018)。

 さて、『知里真志保フィールドノート』の特に(4)の前半に配置された、「ウラシペッの人の物語」と題された一連の物語群については、第90冊(CM90)からとられたとされているが、これは蓮池悦子の目録における「請求番号ア92/c/26」の金成マツ筆録ノートの内容の一部分であるらしい。これらは、筆跡の特徴に関する指摘を含めた様々な情報から、同一のノートではない。特にその中の「1.2 子無き梁井村人の許へ六青年来りて養子になる事」は、私自身の手元にある複写から、金成マツ筆録ノートのなかの物語と同一の文言であるらしいことが確認できている。そして、この対応関係は、北原・八谷・小林(2012)では確認できない。道立図書館の資料の目録を手掛かりにした順番で当たってみるとすれば、CM116の後ろ辺りにきそうなのだが、どうもこれらの物語がその辺りに見つからない。
(おそらくこれは、北原・八谷・小林(2012)p.116の注5に書かれている、一部のノートが北海道文学館に収蔵されなかったことに起因するのではないか、と推察される。)

 つまり、この目録作成の取り組みが、十分にお互いを参照していないために、情報の重複の照合がなされずに整理・公刊の取り組みが進展したということになる……可能性がある。

 これは、特に『知里真志保フィールドノート』で公刊された内容に、重要な影響をもつ。というのは、金成マツが筆録したノートの方には、知里真志保が付けたのではないかとみられる注釈の書き込みが、随所に見られるからだ。しかし、それらの注釈の情報が十分に考慮されないまま、またその情報が翻刻されないままで、清書されたテキストだけが公開され、翻訳を付されたということになる……可能性があるのだ。これはあくまでも私の手元にある一部の資料を元にした推論であり、十分な確認がなされなければならない。(上述の子どものいないウラㇱペトゥンクㇽの物語には、随所に知里のものとみられる注釈の書き込みがある。)

 さて、ということで、ここで必要とされる作業は何かといえば、北海道文学館に所蔵されているノートと、北海道立図書館で公開されているマイクロフィルム資料をつき合わせて確認する作業だということになる。そして、私たちはここで壁に突き当たってしまう。北海道文学館に所蔵されている「知里真志保遺稿ノート」については、一般公開がされていない(少なくとも一般公開されているとはどこにも書かれていない)ために、最終的には十分に確認を取ることができないのだ。
(ただし、北海道立図書館のマイクロフィルム資料と上述の北原・八谷・小林(2012)を元に、かなりの程度まで推測を進めることは可能だ。)

 これは、知里真志保のフィールドノートのなかにプライバシー情報が入っている部分があるために難しいのかもしれないが、しかし口承文学テキスト自体にはプライバシー情報は入っていない。そこの仕分けと公開に北海道文学館が取り組むことは、やはり必要なのではないだろうか。それがない限り、私たちは何か「痒いところに手が届かない」感を抱えながら、資料と付き合っていかなければならないことになる。

※なおこれは、あくまでもユーザー視点からの課題の提示であり、実際に各種機関の内部で資料公開に向けた実務にあたる際の、人員と予算の少なさによる苦労、また規定を一から策定しなければならないことの苦労も、想像に余りある。その一端は北海道アイヌ民族文化研究センター研究課(2011)で知ることができる。

文献情報

複数著者(2002-2009)『知里真志保フィールドノート』(1)~(7)、毎年刊行、北海道教育委員会。
北原次郎太、小林美紀、八谷麻衣(2012)「北海道文学館所蔵『知里真志保遺稿ノート』の細目次」『北海道アイヌ民族文化研究センター研究紀要』第18号、pp.115-321。
白老楽しく・やさしいアイヌ語教室(2021)『知里ハツ口述ウエペケㇾ5話の研究』白老楽しく・やさしいアイヌ語教室。
白老楽しく・やさしいアイヌ語教室(2020)『盤木アシンナン口述ウエペケㇾ8話の研究』白老楽しく・やさしいアイヌ語教室。
白老楽しく・やさしいアイヌ語教室(2017)『金成アシリロ口述ウエペケㇾ10話の研究』白老楽しく・やさしいアイヌ語教室。
白老楽しく・やさしいアイヌ語教室(2008)『金成マツ筆録アイヌユカㇻ『カニビラッカ(金の下駄)』散文訳』白老楽しく・やさしいアイヌ語教室。
知里真志保書誌刊行会(2003)『知里真志保書誌』サッポロ堂書店。藤田護(2021)「金成マツ筆録ノートのアイヌ語口承文学テクストの原文対訳及び解釈 : 金田一京助宛ノート散文説話「金の煙草入れ (konkani tampakop) 」中川裕編『アイヌ語・アイヌ文化研究の課題』千葉大学大学院人文公共学府研究プロジェクト報告書第358巻、pp.15-42。
藤田護(2018)「金成マツ筆録ノートの口承文学テクストの原文対訳及び解釈 : 散文説話「六人の山子(iwan yamanko)」 中川裕編『アイヌ語の文献学的研究(3)』千葉大学大学院人文公共学府研究プロジェクト報告書第325巻、pp.25-65。
北海道アイヌ民族文化研究センター研究課(2011)「北海道アイヌ民族文化研究センターにおける採録資料の公開について」『北海道アイヌ民族文化研究センター研究紀要』第17号、pp.123-148。