miércoles, 15 de septiembre de 2021

アイヌ語の口承物語研究を進める際の「文献学的課題」(その1)知里真志保ノート

 もともとこのブログには、研究そのもののことはあまり書いてこなかったのだが、自分の頭の整理も兼ねて、メモ書きのようにまとめておこうと思う。

 アイヌ語については、言葉を日常生活に回復しようとする取り組みが続けられる一方で、かつて記録されたアイヌ語を利用しやすい形でアクセスできるようにするという、資料の整理と公開の課題がある。この後者を「文献学的課題」と名付けることにする(この名づけ方は、私の先生である中川裕さんを踏襲している)。いま私たちは、どのような「文献学的課題」に直面しているであろうか。

 もちろん課題はそれこそ山のようにあるわけだが、今の自分自身の研究に近い範囲で意識していることを書き留めておく。たいへんややこしいので、書き留めておくことで自分にとっても整理として役に立つのではないかと思うのだ。

 アイヌとしての出自をもち、アイヌ語の研究に尽力し、北海道大学の教授になった知里真志保(1909-1961)によるアイヌ語の記録がもつ重要性は、比較的最近になって光が当てられるようになったと言ってよさそうだ。知里真志保は、『アイヌ神謡集』を遺して早逝した知里幸恵の弟としても知られている。彼が記録したノート(「知里真志保遺稿ノート」と呼ばれる)については、まずは北海道立図書館北方資料室によって(知里真志保書誌刊行会編(2003)に再録:pp.115-129)、また続いて北原・小林・八谷(2012)によって本格的な目録作成の取り組みが行われてきた。

 この目録作成の取り組みと並行して、北海道教育委員会(道教委)がノートの整理、翻刻、刊行の取り組みを行い、『知里真志保フィールドノート』が(1)から(7)まで刊行された(2002年~2008年)。 そもそも(7)の刊行をもって、なぜそれ以降の取り組みがなされなかったのかについては、私が見ている限りでは道教委から何の説明もなされていないようだ。それと同時に、しかし、刊行時に十分に検討されなかったと思われる課題が、もっと細かいところにある。

 この『知里真志保フィールドノート』は刊行の途中で方針が何度も変わっており、(3)から(5)までが、ノートの中の口承文学テキストの翻刻と翻訳に当てられている。それがノートのどの部分に相当するかは、前述の北原・八谷・小林(2012)を見ることで確認でき、そこからは知里真志保自身が記録・整理した内容の相当部分が翻刻・翻訳されて刊行されたことが見てとれる。ここにまだどれほどのの「漏れ」があるかも、丁寧に検討されなければならないのだが、ここで示したい課題はこれでもない。

 ここで指摘したい課題、刊行にあたり十分に検討されなかったと思われる課題は、『知里真志保フィールドノート』(3)~(5)で公刊された物語群のなかに、当初金成マツが筆録した物語を別の手で清書し直したものが含まれているのではないか、ということだ。

 これがなぜ重要なのか。

 金成マツが知里真志保に宛てて筆録したノート一式は、金田一京助に宛てて筆録したノートとともに、北海道立図書館にマイクロフィルム化されて所蔵されている。この資料をもとに、蓮池悦子が詳細な目録を作成したものがアップデートされて公開されている(例えば白老楽しく・やさしいアイヌ語教室2008)。元の目録には、おそらく現物を実際に全部確認していないことによると思われる、細かいところの漏れなどがあるようだが(藤田2021でその一部を指摘したことがある)、たいへん参考になる労ある仕事であることに疑いはない。そして、この目録と公開されているマイクロフィルム資料の複写を元に、当初は蓮池悦子が『アイヌ無形民俗文化財記録刊行シリーズ』において、近年では白老楽しく・やさしいアイヌ語教室が、その一部の翻刻・翻訳・考察を行い、成果を公刊してきている(白老楽しく・やさしいアイヌ語教室2021、2020および2017:蓮池悦子氏の元の仕事にはここの文献一覧から遡ることができる)。藤田も個人的に並行した努力を少しずつ行ってきている(藤田2021および2018)。

 さて、『知里真志保フィールドノート』の特に(4)の前半に配置された、「ウラシペッの人の物語」と題された一連の物語群については、第90冊(CM90)からとられたとされているが、これは蓮池悦子の目録における「請求番号ア92/c/26」の金成マツ筆録ノートの内容の一部分であるらしい。これらは、筆跡の特徴に関する指摘を含めた様々な情報から、同一のノートではない。特にその中の「1.2 子無き梁井村人の許へ六青年来りて養子になる事」は、私自身の手元にある複写から、金成マツ筆録ノートのなかの物語と同一の文言であるらしいことが確認できている。そして、この対応関係は、北原・八谷・小林(2012)では確認できない。道立図書館の資料の目録を手掛かりにした順番で当たってみるとすれば、CM116の後ろ辺りにきそうなのだが、どうもこれらの物語がその辺りに見つからない。
(おそらくこれは、北原・八谷・小林(2012)p.116の注5に書かれている、一部のノートが北海道文学館に収蔵されなかったことに起因するのではないか、と推察される。)

 つまり、この目録作成の取り組みが、十分にお互いを参照していないために、情報の重複の照合がなされずに整理・公刊の取り組みが進展したということになる……可能性がある。

 これは、特に『知里真志保フィールドノート』で公刊された内容に、重要な影響をもつ。というのは、金成マツが筆録したノートの方には、知里真志保が付けたのではないかとみられる注釈の書き込みが、随所に見られるからだ。しかし、それらの注釈の情報が十分に考慮されないまま、またその情報が翻刻されないままで、清書されたテキストだけが公開され、翻訳を付されたということになる……可能性があるのだ。これはあくまでも私の手元にある一部の資料を元にした推論であり、十分な確認がなされなければならない。(上述の子どものいないウラㇱペトゥンクㇽの物語には、随所に知里のものとみられる注釈の書き込みがある。)

 さて、ということで、ここで必要とされる作業は何かといえば、北海道文学館に所蔵されているノートと、北海道立図書館で公開されているマイクロフィルム資料をつき合わせて確認する作業だということになる。そして、私たちはここで壁に突き当たってしまう。北海道文学館に所蔵されている「知里真志保遺稿ノート」については、一般公開がされていない(少なくとも一般公開されているとはどこにも書かれていない)ために、最終的には十分に確認を取ることができないのだ。
(ただし、北海道立図書館のマイクロフィルム資料と上述の北原・八谷・小林(2012)を元に、かなりの程度まで推測を進めることは可能だ。)

 これは、知里真志保のフィールドノートのなかにプライバシー情報が入っている部分があるために難しいのかもしれないが、しかし口承文学テキスト自体にはプライバシー情報は入っていない。そこの仕分けと公開に北海道文学館が取り組むことは、やはり必要なのではないだろうか。それがない限り、私たちは何か「痒いところに手が届かない」感を抱えながら、資料と付き合っていかなければならないことになる。

※なおこれは、あくまでもユーザー視点からの課題の提示であり、実際に各種機関の内部で資料公開に向けた実務にあたる際の、人員と予算の少なさによる苦労、また規定を一から策定しなければならないことの苦労も、想像に余りある。その一端は北海道アイヌ民族文化研究センター研究課(2011)で知ることができる。

文献情報

複数著者(2002-2009)『知里真志保フィールドノート』(1)~(7)、毎年刊行、北海道教育委員会。
北原次郎太、小林美紀、八谷麻衣(2012)「北海道文学館所蔵『知里真志保遺稿ノート』の細目次」『北海道アイヌ民族文化研究センター研究紀要』第18号、pp.115-321。
白老楽しく・やさしいアイヌ語教室(2021)『知里ハツ口述ウエペケㇾ5話の研究』白老楽しく・やさしいアイヌ語教室。
白老楽しく・やさしいアイヌ語教室(2020)『盤木アシンナン口述ウエペケㇾ8話の研究』白老楽しく・やさしいアイヌ語教室。
白老楽しく・やさしいアイヌ語教室(2017)『金成アシリロ口述ウエペケㇾ10話の研究』白老楽しく・やさしいアイヌ語教室。
白老楽しく・やさしいアイヌ語教室(2008)『金成マツ筆録アイヌユカㇻ『カニビラッカ(金の下駄)』散文訳』白老楽しく・やさしいアイヌ語教室。
知里真志保書誌刊行会(2003)『知里真志保書誌』サッポロ堂書店。藤田護(2021)「金成マツ筆録ノートのアイヌ語口承文学テクストの原文対訳及び解釈 : 金田一京助宛ノート散文説話「金の煙草入れ (konkani tampakop) 」中川裕編『アイヌ語・アイヌ文化研究の課題』千葉大学大学院人文公共学府研究プロジェクト報告書第358巻、pp.15-42。
藤田護(2018)「金成マツ筆録ノートの口承文学テクストの原文対訳及び解釈 : 散文説話「六人の山子(iwan yamanko)」 中川裕編『アイヌ語の文献学的研究(3)』千葉大学大学院人文公共学府研究プロジェクト報告書第325巻、pp.25-65。
北海道アイヌ民族文化研究センター研究課(2011)「北海道アイヌ民族文化研究センターにおける採録資料の公開について」『北海道アイヌ民族文化研究センター研究紀要』第17号、pp.123-148。

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