domingo, 15 de septiembre de 2019

空から光の筋で読み解くアンデスの街道

クスコ空港を離陸したリマ行きの飛行機は、しばらくして右旋回してアプリマック川の筋を見ながら進むのが定番だったが、いつの頃からか、左旋回することも出てきた。夜にこのルートを飛んだのだが、光の筋を見ているだけで結構面白い。


左に90度ほど旋回したところ、後ろにクスコの街が明るく見えていて、手前に薄い光の筋が見えているのが、おそらく、パナメリカーナ(Panamericana)からクスコ市に入らずサン・サルバドール(San Salvador)という町を通ってインカの聖なる谷(El Valle Sagrado de los Incas)に続く道筋だ。


180度の旋回が終わってクスコ市と同じあたりに戻ってくると、そこから薄い筋がこちらに向けて伸びているのが見える。これが、クスコ市からインカの聖なる谷のピサック(Pisac)という遺跡の町に向かって伸びる街道と、それに沿った村々の灯りだと思う。私はこの道をもう何度となくこの20年間通ってきた。


今度は手前側に少し大きめの光の集積が見える。これはおそらくインカの聖なる谷の中心となる町のカルカ(Calca)やウルバンバ(Urubamba)ではないかな。
 

さらに進んでクスコ市を離れようとする辺りで、クスコから2本の光の筋が分岐していることに気づく。手前に来るのは、チンチェーロ(Chinchero)からマラス(Maras)を通ってウルバンバに至る、もう一つのインカの聖なる谷に向かう街道だ。向こう側はアンタ平原(Pampa de Anta)でイスクチャカ(Izcuchaca)などの町を経て、次の大きな街アバンカイへと向かうアンデス縦断街道だ。

自分が何度も通っている道筋を空から確認しながら、そこを通ってきた年月を振り返る。

アンデスを離れないといけないとき本当にまた戻ってこれるって思う?本当に確信をもって人々にそう言っている?と聞かれたことがある。そういえば、私の先生もそれに似たことをどこかに書いていた。私はそれを戻ってくると言うことで、次に進めることを具体的に考えながら別れてきた。それが私なりの倫理であったり、けじめなのだと思う。ほとんど狂気のように分裂した世界を、それでもまだ私は生き延びなければならない。

sábado, 14 de septiembre de 2019

アンデスの街と谷筋

アンデス高地にいると、山と谷の筋がどう走っているかに自然と気が向くようになるのだが、これはアンデスの街の中でもそうだ。

流れ下る水は街の中にも起伏を作り出す。街中では暗渠化されているようなこれらの水路は、その直前では地上に出ていて、そこで人々が集まって洗濯をしていたりもする。そういう場所に遭遇すると、「ここもそうだったのか!」と思い、起伏にとんだ街の成り立ちが目に入ってくる。このような谷筋が、街の地区の間の境界線になっていることも多い。

新しい街区が展開していく山の筋によっては、湧水が豊富にあり、街中なので既に飲料水には適さないらしいが、多くの家が水道水とは違う水源を自分の家に引いていたりするらしい。 下の写真のサルスエラ(Zarzuela)地区もそうだが、うちの家族の真ん中の娘が住み始めたアラワイ(Arahuay)地区(ここ10年くらいで、土地が占拠され、少しずつ街の姿をするようになり、数年前からバスの路線がそこまで延びるようになった)でもそうなのだそうだ。

かつて2000年にはボリビアのコチャバンバ市で水をめぐる外国企業との大きな紛争が展開したが、その一因には各家庭が水道水以外の水の使用を禁止されたことがあった。その背景には、アンデス高地独特の水の流れとその利用があることを、これらの街の地形はまた教えてもくれる。
クスコ市サルスエラ地区の脇を削っていく谷

ケチュア語モノリンガルの子どもたちと最先端の子ども向けアニメ

 
スペイン語との二言語化が進むアンデス高地の農村でも、いまだに子どもたちはケチュア語のモノリンガルとして育ち、後から学校などの場でスペイン語を身につけていくということが、指摘されている。私がなじみがある村もそうだ。

そこで先日、ちょっとおもしろい場面に遭遇した。幼稚園の授業自体はすべてケチュア語で行われるのだが、授業前の時間にスペイン語の子ども用番組を見せている。最初は何を言っているか分からないから、子どもたちもほとんど関心を示さないのだそうだが、だんだんと身振りと言葉が対応していることが分かってきて、それを通じてスペイン語を覚えてしまう。ほとんどの家にテレビは存在しない中で(皆が携帯は持っているのに!)、学校につい最近導入されたテレビとDVDプレーヤーは、子どもたちにとって、新しいスペイン語習得の場になっている。

この場合の『ドーラ』もそうだし、他には『ペッパー・ピッグ』もそうなのだが、子ども向けの教育アニメには最先端の教育技術が凝らされていて、これが多言語展開されていく。新しい時代の影響は、アンデス高地の村でもひしひしと感じられつつ、でも人々はケチュア語を使い続けるから、私は早くできるようになりたいと思って、努力をし続けている。




(注)一番上の写真で、私はこの間ずっと村の中を小川が流れているだけだと思っていたのだが、これはインカによって周到に流路が作り変えられているのだそうで、要所要所で向きを変え、くぼみができるようにし、そこを石で囲って、モラーヤ(ジャガイモの保存食、最後に水にさらす)を各家がそこで作れるようにしているのだそうだ。クスコ市内でカルメン・エスカランテ氏に教えていただきました。

jueves, 12 de septiembre de 2019

現場に足を運ぶことで

実際に他の現場に足を運ぶことで、それまでは読む中でしか知らなかった現実が、はるかな複雑さを帯びて感じられるようになってくる。そして本の叙述がいかに複雑なものであったかを、身に染みるように捉えなおす。街の小ささ、村との距離、近代化を経た後での「村」の具体的な姿、街中でどれだけ先住民の言葉が聞こえてくるか、村の人たちにとってのスペイン語との距離、人々の語りのたどたどしさと切実さ。もし先にこの地域になじんでいたら、こちらにむしろ通い続けていたであろうか。一つ一つの出来事が、いま現在の人々の暮らしぶりの中で、それぞれの重みを取って眼前に立ち現れてくる。私のではない、その人の場所としか言いようのない関わりの中で、その人のものでしかない不器用さと狡猾さの組み合わせの中で、それを見せてくれて、どうもありがとうございました。

メキシコ・チアパス州サン・クリストーバル・デ・ラス・カサス市の郊外

クスコの街を裏側から見る

ペルーのクスコというのは、観光に強く規定された文脈をもちつつも、それを超えて魅力的な街だ。でも、植民地から独立後共和制を通じての有力者たちの家のあり方や、街の中心部に残るインカの建築の跡からは、威圧的な印象を受けることも確かだ。これは、西洋とアンデスの対立という図式からは、また少し異なる感覚なのだろうと思う。

そういった中心部の抑圧的な場の中で、うちの家族は角から角を、陰から陰を結ぶようにして、温かい飲み物やサンドイッチを売り歩いて回る。観光客たちにではない。観光客や街の人に物を売る側にいる人たちにである。観光客たちが作り出す物価の高くなった経済ではなく、それを下支えする人たちの経済に、そのさらに背後から回り込み、潜り込んでいく。

市役所の人間や警察に見つかると排除される。その排除をかいくぐるようにして、しぶとく動き回る。これを長い期間やってきた人たちは、自分たちのところを通り過ぎていく人々の、誰が泥棒で、誰が何を売っているかなど、そういうことをよく知っている。街を裏側から知り尽くした人たちだ。

クスコの街は、観光客を重視する流れの中で、2000年代の初頭に「きれいに」なっていった。サンペドロの市場や列車の駅の前を所狭しと埋め尽くしていた露店はすべて排除され、その名も「コントラバンド(密輸)」と呼ばれていたもう一つの露店街Avenida del Ejércitoは高速道路という元々の意図されていた姿へと戻っていき、街の複数の場所に新たに建設された市場へとそれらの商人たち(インフォーマル・セクターの働き手たち)は再配置されていった。
(これはボリビアのラパスの街では考えにくいことで、クスコの街の息苦しさについての私の印象に、大きな影響を与えた。)

何がうまくいっているわけでもなく、生活はいつだって苦しく、生きていくのは本当にたいへんだ。でも、私は、この家族を通して、このように街を下から、そして後ろから見るような見方を獲得してきた。


jueves, 5 de septiembre de 2019

アンデスのススト(怖れ)への様々な対処

アンデスにはススト(susto、怖れ)という病理診断がある。子どもが夜寝ていて布団をはいでしまう、あるいは、何かにつけてビクビクしているようでセンシティブになるなど、こういうことがあるとスストではないかと疑われる。魂が本人の身体から抜け出してしまっているのだ。この症状が進むと、子どもが土を食べだすらしい。

ボリビアのラパス市の近郊では魂呼びのようなことをするのだが、ペルーのクスコ市ではそれをやらず、むしろ卵を使って身体の各部位を撫でていく(スペイン語では、身体に卵を通す(pasar el huevo)という言い方をする)。スストがあると、その悪い部分が吸収されるのだそうで、卵を割ってみて、白い部分がたくさん出てくると、やはりスストだったのだと判断できるのだそうだ。(下の写真を参照)

これは本来は呪術師の仕事なのだが、大体のやり方を覚えておいて自分でやってしまうということもある。そして面白いことに、卵で身体を撫でている間には(キリスト教の)主への祈りを唱えるのだという。

私は常々、アンデスにおいて人々は常にキリスト教とアンデス宗教の間で揺れ動いていると思っている。しかし、このスストのような場合は、あまりにも日常に根付いてしまっていて、キリスト教を信仰していても、ほとんど当たり前のように考え方を受け入れて対処していることが多く、祈りの言葉から見てもここでは両者は混淆している。

この具体的な場合は、心理学的には(?)、子どもが一時的に親から離れてしまったことで不安になって調子を崩しているとも言えてしまうが(家族の中にそういう考え方をする者もいる)、それはそれとして、やっぱり枠組みは複数あった方が良いのではないかな、と私は思っている。事実、次の日からその子は、少しすっきりしたような顔をしている。大家族で子育てを共同でするのだって、いいじゃんね。


domingo, 1 de septiembre de 2019

ボリビア国家の視線が貫くテレフェリコ

今年(2019年)の3月に銀色線(línea plateada)が開通して、ボリビアのラ・パス市の新しい公共交通システムであるテレフェリコ(ロープ―ウェイ)の路線網の整備が完了した。
エル・アルト市のラ・パス市とのへりを通っていく銀色線は、鉄道中央駅から中央墓地を通り7月16日市場をつなぐ赤色線、ラ・パス市の中心に近いオベリスコからファロ・ムリーリョをつなぐ紫色線、オブラヘスからソポカチを通ってシウダ・サテリテをつなぐ黄色線と、ラ・パス市とエル・アルト市の高低差をつなぐ3つの路線同士をエル・アルト市側で結んでいる。

エル・アルト市とラ・パス市のへりを通る路線なので、上からラ・パス市を一望する素晴らしい眺めが続く。
(注)写真は拡大してみたほうが、おそらくきれいに見えます。

反対側を見ると、エル・アルト市からラ・パス市への断崖絶壁に貼りつくようにある建物も見える。上の写真で崖っぷちにあるのは、エル・アルト市のセハ地区の呪術師の市場である。私は最初にここを通った時は、これが呪術師の市場の後ろ側であることを認識しておらず、知り合いに指摘されて初めて気づいた。これは、境界領域に展開する呪術師の知の、地形として極限的な形での現れなのではないかと、深く感じ入った。
(注)アイマラ語では、呪術師は「知っている人(yatiri)」という言葉が当てられます。すなわち、呪術師の知はアイマラの知識人の知だ、ということになります。

今日は、ファロ・ムリーリョで紫色線に乗り換えて、オベリスコに下りて行ったのだが、このテレフェリコは、エル・アルトとラ・パスの街を立体的かつ全体的に感じ取ることを可能にするという意味で、これまで地上をバスで移動していたのとは全く異なる、新たな空間の感覚をもたらしてくれる。周囲の山々や市内の起伏を含めた全体の地形と繋がっている感覚、と言えばよいだろうか。繋がっていると言ってもよいし、自分がそこに包まれていると言ってもよいが、自分がそれを包み支配している感覚とも言えそうだ。

ただし、私が一番注目しているのは、それとはまた少し違う点だ。写真は掲げないが、このテレフェリコは、住宅や建物の真上を突っ切っていく。この街の住宅は、全体を閉ざしてしまうわけではないので、中の部屋の構成や中庭の様子、さらには洗濯をしている様子や女性が髪を洗っている様子などが、上から見えてしまうのだ。その意味で、エル・アルト市やラ・パス市周縁部の住宅は、アンデスの農村の住宅構成をそのまま都市に持ち込んだようなところがある。

アンデスでは、知り合いなどであれば家の中に入って、中庭にある何かしらのベンチのようなものに敷物を敷いて座って話をしてということもあるし、家屋の中に招き入れられることもある。でもここでは、知らない人の私的な生活の空間を、このテレフェリコはあからさまに視線の対象にしてしまう。このテレフェリコは現エボ・モラレス政権の肝いりのプロジェクトであり、すなわち、有無を言わさずに人々の生活空間に侵入していくこの視線は、ボリビア国家の視線でもあるだろう。

新しい観光名所として次第に知られていっているこのテレフェリコは、同時に、ボリビア国家が人々の生活に接触し、浸透していくという、エボ・モラレス政権におけるボリビア社会の変化を最先端で担っている装置でもあるのだ、と私はいま考えている。
(注)このようなボリビアの現状認識については、少し前のエントリーで書いた、ボリビア研究学会での国際大会におけるカルロス・クレスポの発言から、示唆を得ています。

一番早く開通した赤色線では、その下にある住宅が一つの地区で連携して鮮やかな色々に塗って、上空を楽しませようとする試みも行われている。新しい時代の国家の視線に対して、人々はどのようにそれを受け止め、それに対抗していくであろうか。

アンデスの村の光が柔らかくなるとき

アンデス高地の日の光は強烈だ。「アンデスの太陽はただ焼くだけで暖めない(El sol andino solo quema y no calienta)」と言われたりもする。その強い日差しは、光と影の差を際立たせる。

その日の光が、少し和らいで感じられる時間がある。ひとつは、日中に家屋の中から外を眺めているとき。土レンガ(アドベ、adobe)で出来た家は、窓があっても室内は日中なお暗い。戸口から外の強い光を眺めると、外の世界の強烈さを静かに受け止められるような気になってくる。

もうひとつは、午後から夕暮れ時にかけて。午後3時を回ったころから、急に日の光が柔らかくなってくる。柔らかな午後の日差しの中で、様々なものが許されて、人々が優しくなってくるような気がする。
日が暮れ始めると、少しずつ灯がともり始める。アンデスの街の灯りは、現代でもなお黄色く薄暗い。その薄暗がりに包まれていく身体が、心地よい。一日が終わった後を家族で共有するこの時間帯の優しさが、私のアンデスの原風景/原感覚のようなものかもしれない。