Sin embargo, una vez que uno sale de la burbuja que es la ciudad misma de Cusco, una vez que se cruza la línea imaginaria entre la parte urbana del distrito de Santiago, en donde se habla quechua y castellano, y se entra a las comunidades que existen en el mismo distrito, uno encuentra un país, no un país bilingüe, sino un país monolingüe en quechua, que está administrado desde afuera por gente que a lo mejor habla quechua como segundo idioma, pero que obviamente son castellano hablantes. Pero el quechua que habla la gente que viene a administrar estos sitios es distinto del que habla la gente que vive en estas comunidades. (p.153)
【私訳】しかし、いったんクスコの街自体の外に出ると、ケチュア語とスペイン語の双方が話されているサンティアゴ地区の都市部の想像上の境界線を踏み越えると、そして同じ地区の中に存在する村々へと入っていくと、人は二言語使用の国ではなく、ケチュア語の単一言語使用の国と出会う。その国は、外部から、ケチュア語を第二言語としては話すかもしれないが、明らかにスペイン語話者である人々によって、統治されている。しかし、その外から統治をしにくる人々が話すケチュア語は、これらの村々で生きる人々が話すケチュア語とは、異なっている。
(Bruce Mannheim y Margarita Huayhua. 2016. "El quechua es un idioma multi-registral." En Centro Estudios Regionales Andinos Bartolomé de las Casas (CBC). Foro Dilemas de gobernabilidad en el Sur Andino al 2021. Cusco: CBC, pgs.152-156.)
とてもザックリした言い方なのだが、そのザックリさがむしろ現実を鮮明に特徴づけるということがある、と思わせる。ミシガン大学の言語人類学者のブルース・マンハイムはペルーのアンデス地方を、一貫して、別の民族・国が囲い込まれている(acorralado)状態にあると表現していて、これは単純すぎるという批判も受けてきたのだが、現在に至るまで直観として有効な洞察だと思う。そう、この分断が今も変わらず続いていることは、何度でも確認されてよいことだろう。同じ原稿の別の個所には、このような一節もある。
En el Perú no sabemos en realidad cuántos hablan el quechua, ni cuándo, ni dónde, ni en qué circunstancias sociales. En realidad, hemos repetido las mismas estadísticas de siempre, apoyados en censos insensatos, sin haber hecho el trabajo empírico sobre la base del cual se pueda armar una política idiomática más profunda. (p.152)
(censos insensatosはたぶんギャグ)
【私訳】ペルーで、我々は現実問題として、ケチュア語を、何人が、いつ、どこで、どのような社会的状況で話すのかを知らない。実際には、これまで、理性を欠いた国勢調査にあぐらをかいた変り映えのしない統計数字が繰り返されてきたのであり、より深みのある言語政策を策定するのに役立つような実地調査は行われてこなかった。
(注)ここで言及した文献の紙バージョンには文献リストが付いていないが、筆者マンハイム自身がacademia.eduで文献リスト付きのPDFファイルを公開している。
追記:この論考は、これまでの多くの調査がスペイン語とケチュア語の二言語話者に偏りすぎていたという反省の下に、ケチュア語の単一言語話者のおかれた社会状況やその音声的特徴を調べていく、中期的な取り組みの中に位置づけられるものだ。ここから、かつてのケチュア語とアイマラ語においてあった「五母音表記」の主張は(両言語ともに母音は三つしかない)、都市支配階層の二言語話者に基づいたものにすぎず、単一言語話者のケチュア語を見ていないものだ、という見解まであと一歩ではないかと思われるのだが、さてそれでいいのかな。
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