sábado, 20 de agosto de 2016

いのちの危機の場に身を置くたびに

私は「業界」としての人類学にコミットしているわけではないし、人類学自体が変化してきたのでもあり、調査の過程での調査者の「介入」に神経質になることはないが、ただし自分の介入(参与)を省察する必要はあるとは思っている。

かつて人類学において、調査者は中立を保つべきだとされ、調査対象への介入をするべきでないと考えられた時期があったが、そもそも方法論として参与観察の「参与」って何だったんだよということでもあるし、不介入主義がもつ倫理的陥穽が指摘されもしてきた。

文化相対主義をそう簡単に手放していいわけではない、でも我々はしばしば介入せずにはいられない。どっちも当たり前のことではない。

これが人類「学者」にとって、ここ25年くらいの比較的新しい感性だとして、決定的かつ衝撃的だったのはナンシー・シェパー=ヒューズ(Nancy Scheper-Hughes)のブラジルのスラムでの仕事だった。やっぱり自分の原点には、大学院の入り始めで彼女の仕事を読んだことがあったのだと、最近再確認した。

そもそも疑似的に家族の一員として位置を与えられるのは、介入というよりは、受動的に、しかし決定的にその家族を変えている。そしてその場で、「いのち」に関して、私は何度か自分が介入する決断を下してきた。これを放置したらもうその人の命が危ないという場面で、ということでもあるし、もっと緩やかには、生活や人生が本当に苦しい中で誰かが寝たきりに近くなっていたとき、私が来ると分かると元気になる、というのも、私は「いのち」に影響を与えているのだろう。

人は話したいし、聞いてもらいたい。そして、人は生きたい。なぜか、様々な経験を経る中で、いつのまにか、私は、この二点だけは、ほとんど前提のように想定してしまっている。

一生懸命に息をしようとしている、生きたいよね。そんなに簡単にわたしはお前を死なせたりしないし、家族がバラバラになるのを傍観したりなどはしない。そんなに直線的に考えてよいことなど本当はなかったのだと分かってきてしまったけれど、それでももう十年以上しんどい状態を一緒にくぐってきたのだ。いのちの危機から、せめて逃げないようにしよう。

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