ボリビアで歴史学や人類学に関わっていると(注:ここで歴史学というのは先住民の入っていない伝統的な歴史学ではありません)、日本で「在野」と呼ばれるような世界とどのように関わるかに、頭を悩ませるようになる。
今進行中の民族学年次大会(Reunión Anual de Etnología)というボリビアの人類学で最大の学会は、近年発表のレベルが落ちていると言われていて、確かにそういうところはあるように思う。ボリビアの「卒論」というのが日本の卒論よりも遥かに厳しい要求の下で執筆されるという違いを十分に考慮した上でも、やはり卒論がまだ通っていない大学生の発表には首を傾げるものがあるのも事実だ。
しかし、人類学や歴史学が少数の外国人研究者とそれとつながったボリビア人研究者だけで行われていた「少数精鋭」の時代がかつてあったとすれば、現在は学問の「大衆化」が起こった時代だ。ラパス市だけではなく、エルアルト市にも大学が出来て(エルアルト公立大学UPEA、タワンティンスーユ先住民大学Ajlla Uta)、多くの問題を抱えつつも、歴史学を、人類学、社会学をしようとする人の裾野が大幅に広がったのが今の時代だ。
そうすると、方法論的には極めて怪しい思考も跋扈するようになる。怪しい語源解釈、怪しい類推(アナロジー)などに満ちた議論。しかし同時にそれは、その社会を、その文化を生きようとしている人の実感が込められた議論であることも確かなのだ。学問の最先端とは離れて別の領域で蠢く猥雑で純粋な思考。それは呪術師たちと結びついた思考であったり、しぶとく生きる民間伝説の破片がそこに見えたり。
そういう思考たちは、学会の聴衆の中に、そして発表者の中に、そして何とかなり名の通った研究者の中にも姿を現す。
ボリビアでは研究者の発表に対してなかなかまともな質問・コメントが出ないと言われる。しかし、これは見方を変えると、我々は「在野の思考」とどのように対峙するかという厄介な課題に直面しているのだ。これを忌避して拒絶することも出来るが、そうではないとするとどうすればいいのだろうか。
かつて人類学(や他の学問)が「インフォーマント」と呼んでいれば、よかった時代があった。「土着の知識(indigenous knowledge)」として括っていれば、よかった時代があった。でもそのような時代が崩れ去った今、私たちの知識の紡ぎ方はどう変わっていけばよいのだろうか。
保苅実さんが遺著の『ラディカル・オーラル・ヒストリー』で提起した問題は、こんな形でも、研究する私たちを撃ってくるよ。
No hay comentarios.:
Publicar un comentario