私のアイマラ語の先生のフアン・デ・ディオス・ヤピータ(Juan de Dios Yapita)に、私がしたアイマラ語のインタビューの書き起こしをずっと見てもらっている。
つたない私のアイマラ語の理解力のせいではなはだしい迷惑をかけているのだが、本人は喜んでいるよう。日頃、本当に言葉を大事に考える人というのは、案外少ないのだなあということを私自身が実感している中で、そういうことなのかもしれないなと思う。正確に書き起こすとか、丁寧に翻訳するという仕事を通じて、言語の一番大事なところに触れている。
それにしても、私には文化的な知識がもっともっと必要だ。元々のおじいちゃんの話を聞いていて、どこでつまづいたかというと、一つはチャマカニ(ch'amakani、「チャ」は破裂音)と呼ばれる文字通り暗闇で何かに憑依されるタイプの呪術師が出てきたところで、もう一つはコンドル人間(頭がコンドルで、鼻が鉤鼻で、翼をもっていて飛べる)が出て来て火をボワーッと吹いたところだった。一つ目は、僕自身がヤティリ(yatiri)という呪術師にしか会ったことがないという経験の狭さから、二つ目は、エンカント(encanto)と呼ばれる呪いにかかるパターンの僕の中での少なさが影響しているわけだ。
(ちなみに私のアイヌ語の先生の中川裕さんという言語学者は、文化的というか民俗的な知識にとても詳しいことに最初の頃びっくりしたのだけれど、そういうことなのだなあと自分で追体験している感じだ。)
今日、僕のアイマラ語の先生は、アイマラ出身の知識人の勉強不足をひとしきに嘆いた後に、「こういう言い方があってな」と教えてくれた―
(1)yatir yatir tukuña(知ったかぶりをする)
(2)qullqin qullqin tukuña(金持ちのふりをする)
tukuñaは「終わる、変身する」という意味の動詞なのだが、前の名詞を重ねることで「実体とは違うもののふりをする」という意味になるのだなあ。アイマラ語における繰り返しは、アンデスのスペイン語にもそのままの形がないので、いつもちょっと面白い。翻訳不可能性が顔を出すポイント。
「ふり」をしない謙虚さ、一番大事なところで言語と付き合う誠実さ。先生のありがたいところは、そういう態度から直に影響を受けられること。
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