lunes, 20 de marzo de 2023

アンデスの高原地帯で重要な「トーラ(t'ula)」という灌木

コロナ禍(とそれ以前に部分的には私の不調)による長い休止を経て、昨年の夏からラテンアメリカに戻っている。この3月もボリビアに来ている。

論文には確かまだ書いたことがない事柄だが、 私はボリビアで一つの家族ともう20年にもなる関係を積み重ねてきていて、この家族の父親と子どもたちは、20世紀前半ボリビアにおけるアイマラ先住民運動(カシーケス・アポデラードスの運動と呼ばれる)の有名な指導者サントス・マルカ・トーラ(Santos Marka T'ula)の子孫である。この家族の中で私は、「密輸されてきた息子(hijo contrabandeado)」として、誰の息子で誰の弟でという家族の中でのポジションが決まっている。そして、皆が家族の外の人たちに対しても大真面目にこれを主張してくれる。

さて今回は、その家族の父方の出身地であるイラタ(Ilata)という村で、重要な役割を果たす植物の話だ。上記の先住民指導者の名字にもあるトーラ(t'ula)は、ボリビアの高原地帯(アルティプラノ)と呼ばれる標高4000m弱に広がる平原の一部に生えている、とても重要な植物に由来している。今日はラパス県のグアルベルト・ビヤロエル郡 に行っていたのだが、同じ県のパカヘス郡でも群生している地域を見たことがある。

これは、アルティプラノに生えている灌木で、下の写真のように枝に棘がなく(棘がある灌木がかなり多い)、葉の先端は細く柔らかくなっている。

 

少し離れて眺めてみると次の写真のようになる。後ろに植わっている赤い植物たちはキヌアというアンデス原産の穀物だ(アイマラ語ではフパjuphaと呼ばれる)。

 

これはまずは、薪として有用である。高原には樹木がそもそも生えないので、灌木を切ってきて乾燥させながら薪として使うことになる。トーラはまだ葉が緑のままで、すなわちまだ乾ききっていない中でも、しっかり燃えるのだそうだ。下の写真では、屋外の薪で料理する料理台(アイマラ語でケリqhiriという)を取り囲むようにして、伐採されたトーラが積み重ねられ、乾かされている。

 

(ちなみにこのような灌木がない場合は、リャマや牛の糞(アイマラ語でプルphuru)を乾燥させたものを燃料として用いる。)

肉のアサード(asado:炭で焼くバーベキュー料理)をやる時でも、この地域ではトーラが使われるのだそうだ。独特の風味になりそうで、今度再訪した際に皆でやろうということになった。

さて、トーラの有用性は薪としてだけではない。この雨季に、先っぽの方の葉が黄色くなり始めたトーラの灌木では、株の周りをよく調べると、土が盛り上がっている部分がある。今日教えてくれた人は、この盛り上がりを「荷物がそこにあるかのような(abultado)」と表現していた。そして、その盛り上がりを叩くと、太鼓(ボンボ)のような音がするのだそうだ。下の写真で、灌木の右下に土に切れ込みの入った盛り上がりが見えている。


そこには、新しく形成された地下茎のようなものがあり、掘り起こしてみると次の写真のようになる。

この地下茎はアマニョケ(amañuqi)と呼ばれるのだそうで、これには薬効成分が豊かに含まれると言われる。肝臓とかに特に良いらしい。黄色い部分とピンク色の部分があって、黄色の部分がカンク(k'ank'u)、ピンク色の部分がムスカ(musq'a)と呼ばれる。ピンク色の部分は甘い味がするらしい。よく洗って、乾燥させて、薄く切る。そのまま食べることもあるが、煎じてお茶(マテmate)にして飲むといいのだそうだ。沸騰させると辛くなるから、煎じるだけにするのが大事だと。

今年はまだ雨があまり降っていなくて、このアマニョケがほとんど見つからなかった。雨が降っていれば、もっと上の写真よりも2倍くらいに大きいサイズで見つかるのだそうだ。

今回は乾燥させるのを待っている滞在時間がないので、お茶を味見するのは別の機会に回すことに。刈り出してあったトーラを家に運ぶのを手伝う。

前々からこのトーラが重要な役割を果たす木であることは聞いていたのだが、燃料にもなれば薬にもなるのであったか。農村でのそれぞれの時期の仕事の手伝いから学ぶことは多い。

miércoles, 8 de febrero de 2023

アイヌ語の口承物語研究を進める際の「文献学的課題」(その5)知里幸恵と同世代の少年たちが筆録したアイヌ語(吉田巌遺稿資料)

(2023年10月1日に若干の追記を行いました。)

 ここしばらく、2017年くらいから、私が所属している研究グループでは十勝地方のアイヌ語の記録の回復に取り組んできている。一つの成果としては、千葉大学アイヌ語研究会編『沼田武男「採訪帖」―アイヌ語十勝方言テキスト集』 (千葉大学文学部ユーラシア言語文化論講座、2021)が刊行されていて、また最近の取り組みの進展は中川裕「<アイヌ語を語り継ぐ>言葉の流れ 今も脈々と」(『信濃毎日新聞』、2023年1月15日)で紹介されている。

 様々な理由で十勝のアイヌ語やアイヌ語で語られた口承文芸は、なかなかその姿を把握することが容易ではない。 それは、かつてこの地域で重要な録音作業をしていたはずの帯広畜産大の辻秀子さんによる記録資料が、整理をされないままで行方が分からなくなったことも一因である(以前のエントリー「アイヌ語の口承物語研究を進める際の「文献学的課題」(その3)」も参照、なおこの件には前進がみられるようだ)。また本別の沢井トメノさんが伝承した記録は、浅井亨、切替英雄、高橋靖以、澤井晴美の各氏によって公刊されてきているが、文字のみであって、音声が公になっておらず、また記録された資料の全貌がどれほどなのかも明らかになっていはいない。おそらく現状で公刊されているのは、沢井トメノさんが語り伝えたことの一部でしかないだろう。(上の辻秀子さんの記録のなかにも、沢井トメノさんの語りは複数収められていたことがみてとれる。)

 ここでとりあげるもう一つ大きい点は、十勝を拠点とした吉田巌が遺した資料のなかのアイヌ語部分がほとんど公になっていないことである。これは「吉田巌遺稿資料」という名称で、帯広市図書館に保管されてあるといわれ(蔵書検索では出てこない)、またその複製が北海道立図書館で閲覧可能になっている(以下の米田(1995)によれば、道立図書館で公開されているのは全体の一部でしかないらしい)。これは中身を見てみると、虻田学園をはじめとして、吉田巌が学校で少年たちから提出させていたらしい、それぞれの少年たちの出身地でのアイヌ語と伝承の記録が、多数収められている。

 この吉田巌遺稿資料のアイヌ語部分がもつ重要性は、札大の本田優子さんのかつての仕事である米田(1995)「アイヌ農耕史研究にみられる伝承資料利用の問題点」(北海道立アイタ民族文化研究セソター研究紀要』第1号)においても指摘されており、そこでは、これらのアイヌ語資料の今後の公刊に期待が寄せられていた。しかしながら、この吉田巌遺稿資料は、帯広市によって「帯広叢書」というシリーズで公刊が続けられてきたが、不思議なことに、上述の少年たちによるアイヌ語の記録資料部分は、現在に至るまでほとんどそこに含められていない。唯一、若き日の江賀寅三による記録が収められているが、これすら江賀寅三の名前で遺稿資料に収められている記録の、ごくごく一部でしかない。そもそも資料の全貌がどれくらいあるのかすら分からない。

 吉田巌のアイヌ伝承に関する記録は、「帯広市社会教育叢書」というシリーズでかつて刊行されていたものの中に複数収められているのだが、不思議なことにそれぞれの伝承の出典や語り手の情報はほとんど示されておらず、またアイヌ語の原文がある場合が複数あると思われるが、日本語でしか書かれていない。したがって刊行された記録と、原記録のあいだの対応がついていないのだ。

 このアイヌ語の記録が興味深く、重要性が高いのは、記録を残したこの少年たちが知里幸恵とほぼ同時代の、ほんの少し年上の世代に属していることである。同時代のアイヌ語の記録としては、金田一京助の影響のもとでアイヌ語の筆記にとりかかった知里幸恵が、孤高の存在として屹立している印象をどうしても受けてしまうが、同時代に吉田巌の学校でもアイヌ語をひらがなやカタカナを用いて記録していた子どもたちがいたのだ。その少年たちは十勝の出身だけではない、上述の江賀寅三をはじめ(彼は長万部の出身である)、白老や沙流川筋の少年たちの名前もそこにはある。学校の、おそらく宿題のような形だったのではないかと推測されるが(「國の宝」と題されたものが多い)、そこで子どもたちが苦心してアイヌ語で、あるいはアイヌ語と日本語の併記の二言語テキストとして、そして時には日本語だけで、地域ごとのアイヌ語を比較し、日記をアイヌ語でつけ、伝承を記録している。日記といえば、江賀寅三少年は、ジョン・バチェラーとアイヌ語で話した!と、その内容をアイヌ語で丁寧に記録して提出したりもしている。その躍動するアイヌ語が、図書館の片隅にしまい込まれたままになっていて、現在の若い世代のアイヌ語を回復しようとする人たちと断絶されたままになっている。

 2022年から2023年にかけては、知里幸恵の没後100年から『アイヌ神謡集』刊行100年という、大きな節目の年を迎えている。と同時に、知里幸恵を一人にしないことも大事なのだと思う。同時代の社会と、そこでの若い人たちのアイヌ語を記録するネットワークのなかに知里幸恵を位置づけなおす。そのためにも、吉田巌資料のアイヌ語記録部分は本当に本当に大事なのだと思う。

アイヌ語の口承物語研究を進める際の「文献学的課題」(その4)フィールドワーカーとしての萱野茂氏の姿の解明に向けて

 萱野茂さんは沙流川の二風谷が生んだ偉大な知識人で、アイヌの文化についての収集や記録作業に長年にわたって尽力し、とても貴重な文化遺産(ヘリテージ)を後からの世代に残した。アイヌ語とアイヌ語で語られた口承の物語についても同様で、『萱野茂のアイヌ語辞典』、『ウウェペケレ集大成』、『萱野茂のアイヌ神話集成(10巻)』、(上田トシさんとの会話記録である)『凍ったミカン』、『チセ・ア・カラ――われら家をつくる』などなど、伝承されたアイヌ語も、そして自らのアイヌ語も記録として遺した。それは今の若い世代がアイヌ語を学び、取り戻すにあたって不可欠の記録群である。

 しかしながら、知識人として発言や発表される成果に注目が集まってきた一方で、調査者(リサーチャー)としての萱野茂さん、あるいはフィールドワーカーとして萱野茂さんの姿は、それほど明らかになっているとは言えない。このことが見えてきたのは、平取町と千葉大学で共同で取り組まれた事業で、『アイヌ語の保存・継承に必要なアーカイブ化に関する調査研究事業 2年次(北海道沙流郡平取町)調査研究報告書』に結実した作業であった(詳細については中川裕(2016)「千葉大学におけるアイヌ語資料の整理と公開」を参照)。これは、萱野さんが平取町からの委託で録音した24本のオープンリールテープを聞き起こし、公開する取り組みであり、私(藤田)も参加していた。現在は、二風谷アイヌ文化博物館のホームページで、テキストと音声が公開されているこの音声を聞いていると、和人の研究者が調査者として聞き取り調査をしているのとは、全く性格の異なる調査がそこにある。萱野さんの訪問を受けているおばあさんたちは、自分たちの文化を共有する後続世代の萱野さんに対して心から楽しんで言葉を発しており、口承文芸を共有する温かい場がそこに生まれていたことが分かってくる。

 しかし、これは平取町だけで萱野茂さんが展開していた活動ではない。北海道教育委員会(道教委)が出している6冊の報告書『アイヌ民俗文化財緊急調査報告書(無形民俗文化財1~6)』(1977-1981)を見ると、道教委のこの委託事業によって、萱野茂さんは平取町でも一層広い範囲を歩きまわり、また西は鵡川町、室蘭市、そして門別町、穂別町、新冠町、静内町、様似町、三石町、浦河町、鵡川町、室蘭市、さらには十勝まで足を延ばしている。この記録が一体どこにあるのか、それとも失われてしまっているのかが、私は長いこと分かっていなかったが、その相当な部分が北海道立図書館で電子化されたCDの形で「アイヌ民俗文化財伝承記録CD」として所蔵されており、これが道立図書館の蔵書検索からも確認できることが分かった。(北海道立図書館のこの資料の存在は阪口諒氏のご教示による。)この資料はアーカイブ公開などもされておらず、かつCDの内容と道教委の報告書の内容がどのように対応し、どのように対応しないのかの内容目録の検証もなされていないようだ。

 しかしこれは、まさにフィールドワーカーとして、自らの出身地域を越えて広範囲を歩き回った調査者リサーチャー)としての萱野茂さんの姿を示していると言えよう。この道教委の記録では、平取町内だけでもかなりの話者の下を訪れて記録がなされていることが伺え、記録としても貴重な価値をもっていることは論をまたない。と同時に、足を使って各地の伝承者を尋ね、言葉を交わす萱野茂さん自身の姿もこれらの記録から浮かび上がってくるはずなのだ。上述のCDを聴取するだけで、勝手知ったる旧知のおばあさんたちとの話し方と、初めて話を聞かせてもらう他の地域のおばあさんたちとの話し方とがどのように違っていたか、口承文芸を聞かせてもらう際にどういう文脈でお願いしているか、語り終えた際にその場に同席している人たちとどのようなコメントを短く挟んでいるか、そのような姿と佇まいとやり取りとが生き生きと浮かび上がってくるのだ。

注1――ただし興味深いことに、十勝での萱野茂氏の録音は、道立図書館の検索結果から確認できない。先の「アイヌ語の口承物語研究を進める際の「文献学的課題」(その3)」で指摘したように、『アイヌ民俗文化財緊急調査報告書(無形民俗文化財6)』(1981)の辻秀子氏による十勝での録音記録も、道立図書館の検索結果に全く現れてこない。この部分だけがぽっかりと抜け落ちていることになる。これは何が起きたのだろうか。

注2――これは相当に規模の大きい資料群であり、全体を聞くことは全くできていないが、テープによってはかなり劣化した状態でデジタル化されたものが入っているようだ。 これは、現在の技術でより良いデジタル化が可能かどうかも含め、早期の注目と対処がなされた方がよいのではないかと思われる。

 そしておそらくは、この道教委の録音資料だけではない。『炎の馬』、『カムイユカラと昔話』、『アイヌと神々の物語』 など、萱野さんによって日本語で紹介されたアイヌの物語群、そして特にカムイユカㇻ(神謡)ではないウエペケㇾ(散文説話)の方には、アイヌ語の原文が付されておらず、また神謡も含めて音声が公開されていないものが多い。これらの物語のどこまでが、上の平取町や北海道教育委員会の調査に基づいており、どこまでが、それ以外のタイミングで録音されたものなのかが重要になるだろう。そのような点の検証も進んではいない(なお、阪口諒(2018)「萱野茂氏によるアイヌ民話記録一覧」(『千葉大学大学院人文公共学府研究プロジェクト報告書』第325巻)はその点に向けた重要な一歩である)。すなわち、萱野茂さんの膨大な仕事は、いまだにその全貌が明らかになっていないのだ。

 仕事の全貌が明らかになっていない結果として、萱野さんの年長世代のアイヌの人たちとのネットワークや、そこでのやり取りの内容や、そこでの萱野さんの佇まいなども見えないままになっている。これはもったいないことでもある。結果から過程へ、アイヌ文化を広める役割への着目からアイヌ社会のなかでのリサーチャーとしての姿へ。世界的に「調査方法(リサーチ・メソッドとメソドロジー)への関心が高まり、以前の時代に行われた調査方法(例えばラテンアメリカの参加型アクションリサーチ)の掘り起こしが進む状況で、この点の重要性は高まりつつある。萱野さんのこのようなリサーチャーとしての等身大の姿は、やはり明らかになっていった方が誰にとっても良いのではないかな、と私は思っている。そして、それは逆接的ではあるが、丁寧な資料の掘り起こしと検証と公開を通じてしか実現できないことなのだ。

miércoles, 23 de noviembre de 2022

Importance of Maintaining Online Learning Materials (Quechua and Aymara)

I have been noticing that some of the important sites in the US universities for learning Quechua and Aymara, languages of the South-American Andean highlands, are no longer accessible. I shall mention the two that particularly impacted me, but there could be more.

(1) Digital Resources for the Study of Quechua (hosted by the University of California Los Angeles, UCLA)
This website had made accessible the material Quechua Live and in Color! developed by the team of Roger W. Andersen and others (formerly: http://quechua.ucla.edu). 

(2) Aymara on the Web (hosted by the University of Florida, UFL)
A digital re-adaptation of the products from the Aymara Language Materials Program which was led by Martha J. Hardman in the 1960s-70s (formerly: http://aymara.ufl.edu/). The dialogues and exercises from the student manual Aymara ar yatiqañataki had been put on-line, with the dialogues by the Aymara speakers.

The leaders of these projects have left the universities, and this may have been the main reason behind the closure of these sites. However, these materials have their on-going and historical significance. On-going in the sense that they would still help the new learners with additional and complementary learning materials. Historical in the sense that they occupy an important position in the history of development of learning materials in these languages, and should be left available for the analysis and scrutiny of a new generation of researchers. Despite other new and innovative materials now being made available on the web (for example Ciberaymara http://www.ilcanet.org/ciberaymara/contenidos/), past materials do not lose their importance.

From this perspective, I would like to strongly urge both the University of California Los Angeles and University of Florida to assume their historic and social responsibility to make these learning materials accessible again, and to maintain that accessibility.

lunes, 5 de septiembre de 2022

飢餓の季節から次の豊穣の季節に向けて

南アンデス高地では、8月の終わりから9月の初めにかけてが、一つの大きな季節の転換点になる。 ボリビアでは8月は乾季=寒季の終わりで、大地の母神(パチャママ)が飢えていると考えられている。なので、甘みのある捧げもの(「メサ」)を燃やして食べさせてあげるという、「ワフタ(waxt'a)」と呼ばれる儀礼が様々な社会集団で行われる。9月に入る頃から雨が降り始め、年末から3月くらいまでの収穫と豊穣の季節に向かって、動き始める。

トウモロコシの芽が出始めている。なお、今年は家族の不幸があったため農作業が遅れていて、トウモロコシの苗がもう少し大きくなっている所もある。このペースで行くと年が明けてからの収穫になるようだ。ジャガイモを植えている所は、もうかなり株が大きくなって花も咲いている。

 

果物の花は8月に満開になり、もう終わりかけている。高原(アルティプラノ)に隣接する渓谷部(バーイェ)は果物の生産地であることが多く、1月から2月にかけて収穫のピークを迎える。上はナシ(pera)の花。

 

この上の花は、ここではルクマ(lúcuma)と呼ばれるのだが、どうも他の地域ではルクマというと別の果物を指すらしい。他の果物よりも少し遅れて、カルナバルの時期に黄色いカリンのような実をつける。これを煮出して甘く味付けをして飲み物にしたり、砂糖煮込みでコンポートにしたりする。

 

この上の桃色の花が、桃(durazno)。日本の桃よりもずっと小ぶりの実をつける。

 

この上の二つの写真はダマスコ(damasco)で、赤めの瑞々しい実をつける(酸味が強く瑞々しすぎて、私は少しこの果物が苦手だ)。もう小さな実がついているのが見える。

 

この上の写真はプラム(ciruelo)。小さな果実で、これが他の果物に先駆けてなっていく。もう花がほとんど終わってしまっているが、枝にかなりびっしりと白い花がつくので、ダマスコと見分けがつく。プラムには複数の品種がある。


 

私が今回初めて見たのは、リンゴ(manzana)で、これまた日本のリンゴよりもかなり小ぶりの実をつける。実をつけつつ花が咲いているなと思ったら、ここではリンゴが年に2回とれるのだそうだ。知らなかった。

渓谷部では他に、トゥンボ(tumbo)という白い実の中に、オレンジの細かい果実に黒い種子が入ったものが無数に入っている果物や、パカイ(pacay)というソラマメのお化けみたいなものに白い甘い綿にくるまれた大粒の種子が入っている果物があるが、興味深いことにリオ・アバホ(Río Abajo)の谷筋ではこの二つをほとんどみない(トゥンボはたまに植わっている)。さらに標高が低くなるとブドウが作られるようになり、自家製のワインが醸造されていることで知られる村々があったりする。

私は、今の仕事では果物の収穫の最盛期にはもう間に合わず、残っているものを大慌てで食べさせてもらうことが多い。1月から3月にかけてこの土地でとれる果物をしっかり食べておくと、体の免疫力が上がるんだよ、とアンデスにいるとよく言われる。

sábado, 11 de junio de 2022

Indianismo a pie

(Intervención en la ocasión de Akhulli Homenaje a jach'a jilata sociólogo Felipe Santos Quispe organizado por el Taller de Historia Oral Andina, viernes 10 de junio de 2022) 

Transmisión Facebook Live

Estamos todavía en medio de una profunda tristeza por la partida de Felipe, pero es también una alegría como mencionó nuestro director Rodolfo Quisbert, de poder compartir este momento con sus familiares.

Muchas personas importantes se han partido de estas tierras en estos dos últimos años, personas con quienes he tenido el grato placer de pasar mucho tiempo juntos en varias actividades. 

Hasta donde alcanza mi memoria, Felipe siempre estaba ahí en el THOA. Comencé a acompañar las diversas actividades del THOA a partir del año 2003, visitando la oficina, y participando en su veinte aniversario. Eran los años de Guery Chuquimia, y me acuerdo que Ramón Conde estaba ahí también. Y después ya en los momentos siguientes, siempre ha estado Felipe.

Discursaba bien. Tenía una idea muy clara de lo que era el indianismo. En muchos momentos me quedé impresionado por su capacidad de intervenir como comentarista, y señalar con bastante lucidez el camino que seguir del indianismo en relación al texto del cual comentaba. Hay muchos referentes importantes en la corriente indianista, pero el personaje más cercano, y quien siempre me orientaba en el pensamiento, era Felipe sin lugar a dudas. 

Creo que todo esto apunta a la importancia de una historia oral de los indianistas, una idea y propuesta que siempre ha venido sosteniendo nuestro director Rodolfo Quisbert. Se trataría de cómo las ideas y la ideología se transmiten no siempre en forma escrita sino oralmente, y a través de las redes, asociaciones, y relaciones concretas.

Muchos sostienen que el THOA ha sido como una escuela para ellos. Yo comparto esta visión. En la cocina, en las reuniones, en los debates, en las waxt’as, lo que discutimos forma la base de cada uno de nosotros, y Felpe siempre estaba ahí presente.

Ya mucho tiempo no habíamos compartido con Felipe esa mesa grande en el THOA con reuniones, teysitos, y pan. Extraño la charla que en muchas oportunidades hemos podido tener con Felipe también allí, intervinindo él activamente en los debates, con su discurso, con su pensamiento, con su indianismo. Me cuesta creer que ya no vamos a tener más oportunidades así, todavía pensaba que íbamos a reencontrarnos en algún momento. Pero también estoy seguro que el legado de Felipe siempre está con nosotros, y nos seguirá alumbrando el camino con su lucidez.

 




 

 

 

Para heredar el espíritu reflexivo sobre el idioma

(Intervención en el Akhulli Testimonial al jilir jilata Juan de Dios Yapita, organizado por el Taller de Historia Oral Andina, viernes 2 de julio de 2021)

Transmisión Facebook Live

Jilat kullakanaka, sinti llakisisktwa jach’a yatichirijax akapachat sarxatapata. Jichhax mä qawqha arunak arust’awayä aka Japuna jaya markata, ukham jupat amuyt’asiñataki.

Es todavía bastante difícil hablar de este tema. En una época en que no puedo estar en La Paz, estando en las tierras lejanas de Japón, he sentido y sigo sintiendo una gran pena por el fallecimiento del gran maestro Juan de Dios Yapita.

He aprendido aymara de don Juan de Dios, y nuestras clases comenzó en el año 2003. Recuerdo que antes de venir a Bolivia, la antropóloga inglesa Olivia Harris, cuando la consulté, me sugirió buscar a Juan de Dios. De hecho, todas las personas que consulté dentro y fuera de Bolivia me sugirió buscar a él, y así comencé a pasar clases de aymara con él fuera de mi horario de trabajo de entonces en la embajada japonesa. Comencé a pasar clases con una colega más, pero yo nomás he seguido.

Mis primeros años de aprendizaje de aymara ha sido las clases con Juan de Dios, y las prácticas en el Mercado Rodríguez. Juan de Dios me presentó a su prima hermana, doña Basilia, Basilia Copana Yapita, quien vendía papa, cebolla, y zanahoria en el callejón justo en las afueras del establecimiento de ese mercado. Cada sábado la visitaba, la ayudaba a pelar la cebolla mientras me sentaba a su lado, escuchando las conversaciones que ella tenía con sus caseros y las otras señoras vendedoras. La ayudaba a leer su biblia en aymara, y recuerdo que varias veces rezaba pidiendo que mi aymara mejorara. Si recuerdo bien pasó al otro mundo en el comienzo del año 2007.

Si yo puedo resaltar algo en don Juan de Dios, es su actitud siempre muy reflexiva con su propio idioma, llena de curiosidad. En las publicaciones suyas, se destaca la parte metódica y formalista, estableciendo rigurosamente la estructura del idioma aymara, de ahí desarrollando paso a paso, lo que facilita el aprendizaje de un principiante, y también concientiza a los hablantes nativos del idioma con las estructuras características y propias de este idioma. Pero al mimo tiempo, el material que don Juan de Dios y la doña Juana Vásquez colaboró para elaborar en la Universidad de Florida en Gainesville, en la década de los 1960, se caracteriza por los diálogos creados libremente por estos dos hablantes nativos de aymara, y el contenido de esos diálogos se extiende mucho más allá del contenido gramatical tratado en cada unidad, y los ejercicios de tipo práctica de patrones (pattern practice). Es una creación muy rica y preciosa, y me alegro de que todo este material se ha digitalizado y se ha vuelto más accesible en el espacio virtual.

Aún después de dejar de pasar clases con don Juan de Dios, lo visitaba siempre, y cada vez compartía conmigo sobre lo que estaba reflexionando en ese momento. Tomando un ejemplo de mi cuaderno fechado entre el sábado 10 y el lunes 12 de marzo de 2007, hemos estado viendo el sufijo –xa expresando el condicional:

              Jumax sarätaxa walipuniniw. (Si tú vas, estará bien siempre.)

De ahí nos pasamos al uso del sufijo –tix para enfatizar la persona en estos contextos y da un cierto sentido de amenaza:

              Nayatix saräxa kunaw pasani. (Si yo voy algo va a pasar.)

De ahí criticó un uso en la biblia que él encontró que abusa esta expresión:
              Janiw sarkäti kunalaykutix janiw timpunïktti. (No iré porque no tengo tiempo.)

No se necesita la parte kunalaykutix, que sería una influencia del conector “porque” de castellano, pero al mismo tiempo se encuentra ahí un uso interesante de –tix.

Me influyó mucho esta su manera de reflexión matizada elaborando ejemplos para ir analizándolos. Cómo se podrá heredar ese espíritu reflexivo sobre el idioma es algo que sigo pensando como mi tarea propia al seguir estudiando aymara.  

También fue don Juan de Dios quien me impulsó y motivó a aprender un otro idioma indígena de Japón, el idioma aynu, de la parte norte de nuestro país. Me empujó a que yo buscara un otro idioma que tenga la cuarta persona, la jiwasa, en la gramática. Lamentablemente mi idioma materno, el japonés, no la tiene, pero sí la tiene este idioma aynu. Ahora colaboro en el rescate de grabaciones pasadas del idioma aynu y su publicación, igual que la colaboración que he venido realizando en el ámbito del THOA. También en la sociedad japonesa donde todavía no es muy fácil que los jóvenes de este pueblo indígena acceda a la educación universitaria, hemos logrado aceptar a una estudiante en la universidad donde trabajo, y se está convirtiendo en una joven líder importante de su generación. Me gustaría pensar que estoy siguiendo los pasos que me han mostrado don Juan de Dios y también la Denise.

Permítanme reiterar que la cuestión de cómo heredar el legado del trabajo y la reflexión de don Juan de Dios Yapita va a ser un tema de suma importancia de las generaciones que lo sucedemos. Tenemos que trabajar para esto.

Ukakiw. Samart'akpan jan khitits llakisis, jach’a yatichiri tata Juantirus. Mä jallalla.