jueves, 8 de febrero de 2018

誰に向けて書くのか?

研究論文を書いている際に、私はしばしば、ある特定の人に向かって書いている。それは、論文の中の一つの断片であることもあるが、論文全体であることもある。脚本家の人でも特定の役者さんを想定した「宛て書き」をすることがあるというが、それと少し似ているだろうか。その人に読ませたい。元々その人がそういう風に考えていないような立論であったとしても、それは面白いね、と思ってもらいたい。

それは、学問的にある一点を突破しようとする際に、併せて読者としてその時の特定の対話相手を想定して書いている、ということなのだろう。

でもそれには短所がある。私は、より広い読者を想定していないことがある。そこに元々関心がない人も取り込んで、引き寄せて議論を展開しているか、と問われれば、そういうことを多分私は考えていない。

論文にはある種の文体があるので、それに乗っかっている限りはすぐに表面化してくる問題ではないのだが、そういうことに寄りかからないで書こうと思うと、同時に複数の人を想定して、多様な人たちに宛てることが必要になる。これは、それなりに難しい課題だ。でもそれが課題だと気づくに至ったということは、それ自体が一歩前進でもあるだろうね。

jueves, 14 de septiembre de 2017

今日の一言(アルベルト・フローレス・ガリンド『権威主義の伝統』)




ペルーの歴史家アルベルト・フローレス・ガリンド(Alberto Flores Galindo)を私はずっと敬愛してきた。彼は私が小学生の頃に早逝しているので、もちろん直接の面識はない(ただし私のボリビア人の師匠によれば彼女の修士課程のときの教員だったのだそうだ)。同時代のペルーの歴史家のみならず、知識人全体に活力を与えたフローレス・ガリンドは、歴史家であると同時に現代の問題にコミットし続けた学者であり、元々現代に関心のある私はその点から大きな影響を受けてきた。

死後に全集が編まれる過程で発見された『権威主義の伝統(La tradición autoritaria)』というエッセイがある。今回リマをごく短い時間偶然訪れる機会があり、このエッセイが小さな書籍として別の形で出版されているのを見つけて購入した。そして別の人によって書かれた序文に目を通して、とてもビミョーな気分になった。

彼の主著である『インカを求めて(Buscando un Inca)』は危険な本だ。インカ時代を理想化して、その回復を求めるアンデスの人々の心性を、スペイン植民地時代から現代まで歴史を通して辿り続けるこの本は、実際にインカを神聖化してしまっているという矮小化した評価を被り易い(よく読めばわかるがそんなことはない)。歴史学者としての手続き面での厳密さ(rigor)を求める人には、このような本の執筆は受け入れ難い逸脱として位置づけられることになる。そして、この心性を伝統的迷信と受け取る人からは、アンデスの先住民社会も市民社会の一員として合理的に理解されるべきなのだという批判を受けることになる。後者については、カルロス・イバン・デグレゴリとの論争があり、デグレゴリは人々の「インカを探し求める」心性は、20世紀後半のアンデス社会には既に当てはまらないのではないかという批判を行っている。

言いすぎることを恐れずに言えば、ペルーの学界というのは、複雑な可能性が実現されることを助けることがなく、常により矮小な図式の中での議論に知識人を押し込めようとする。それは、20世紀後半にホセ・マリア・アルゲダスの晩年の作品『全ての血(Todas las sangres)』についての議論をも彷彿とさせる。デグレゴリとの論争は、現代ペルーにおける思想上の最大の問題を示しているといって過言ではないと思うのだが、フローレス・ガリンドが早逝してしまったことによって、フローレス・ガリンドが生きていたら、彼が正しかったとしたらどうだったのか、という問いを埋もれさせてしまった。そしてペルー社会の現実も、この問いを覆い隠したままで21世紀の最初を通過してきたかのように思える。

以下に、このフローレス・ガリンドによるエッセイの最初の二段落と、その仮の訳を付してみる。外野の様々な思惑にもかかわらず、真っ直ぐな文章で、やはり私はこの人の思考が好きだ。
 
Este texto es un ensayo, género en el que se prescinde del aparato crítico para proponer de manera directa una interpretación. Escrito desde una circunstancia particular y sin temor por los juicios de valor, el ensayo es muchas veces arbitrario, pero en su defensa cabría decir que no busca establecer verdades definitivas o conseguir la unanimidad; por el contrario, su eficacia queda supeditada a la discusión que pueda suscitar. Es un texto que reclama no lectores –asumiendo la connotación pasiva del término– sino interlocutores: debe, por eso mismo, sorprender y hasta incomodar. El riesgo que pende siempre sobre el ensayista es el de exagerar ciertos aspectos, y por consiguiente omitir matices, pasando por alto ese terreno que siempre media entre los extremos: los claroscuros que componen cualquier cuadro.
(この文章はエッセイであり、エッセイというジャンルは込み入った批評の装置を回避しつつ、より直接的方法で一つの解釈を提示しようとする。個別の状況から書かれ、価値判断を下すことへの恐れをもたないエッセイとは、しばしば恣意的なものであるが、それを擁護しようとするにあたって、エッセイは決定的な真実を確立しようともしなければ、万人の支持を得ようともしないということができるであろう。むしろ逆に、エッセイの効果とはそれが惹き起こす議論によって決まるのである。それは――字義どおりに取るならば受け身の存在である――読み手(レクトール)を探し求めるのではなく、対話の相手(インテルロクトール)を探し求める文章なのであり、したがって相手を驚かせ、居心地を悪くさせなければならないのだ。すべてのエッセイストにのしかかる危険は、特定の側面を誇張することで、したがって微妙な色合いを、二つの極の間を常に仲介してくれるあの地平を、あらゆる絵図を構成する光と影とを切り捨ててしまうことである。)

En este ensayo se quiere discutir las relaciones entre Estado y sociedad en el Perú, buscando las imbricaciones que existen entre política y vida cotidiana. Lo habitual es separar: convertir la realidad en un conjunto de segmentos. Pareciera que no hay relación alguna entre las relaciones familiares, los desaparecidos en Ayacucho y las prácticas carcelarias. Pero una de las funciones de cualquier ensayo es aproximarse a la totalidad encontrando lo que, mediante una expresión de la práctica psicoanalítica podríamos llamar “conexiones de sentido”.
(このエッセイでは、ペルーにおける国家と社会の関係について論じ、政治と日常生活の間に存在する同形性や重なり合いを探り当てようとする。方法として通常採用されるのは分離であり、そこでは現実が部分の集合に切り分けられる。家族関係と、アヤクーチョにおいて消滅させられた者たちと、監獄内での慣習との間に、いかなる関係も存在しないかのように思えるかもしれない。しかし、どのようなエッセイでも、その一つの役割は、全体性に接近しつつ、精神分析の実践の表現を用いるならば「意味のつながり」とでも呼べるものを見出すことにあるのだ。)

martes, 15 de agosto de 2017

3月のライオン

『3月のライオン』の最新刊(第13巻)の刊行がまた近づいてきた。

映画が華々しく注目を集めている間に、連載が着々と進んでいた。
(映画は、前編はうるさすぎるし、後編は原作の読まなくても(埋めなくても)いいところをわざわざ読みに(埋めに)いくなら、もう少しましな読みを見せてほしかった。原作の静けさと酷薄さを薄めて、どうするんだ。)

問題は、この物語が一体どこに向かおうとしているのか、だ。二階堂について私は以前に扱いが雑だと思っていたが(この記事)、魅力的に切なくそこが回収される。そこには天才というのが相対的なものでしかない、という重要なモチーフも盛り込まれる。そして、前からの続きで滑川を通じて凡庸な真面目さの価値が丁寧に描かれつつ、死の匂いが濃厚に立ち込める。そして……?

domingo, 23 de julio de 2017

何度も魚スープへと立ち返る


ボリビアのラパスに着いたときに、まず私が顔を出すところがロドリゲス市場のワヤケ(魚スープ)のお店。土曜日は路上に屋台が出て、日曜日は少し奥まった場所の店舗だけが開く。コワと呼ばれる香草の香りがむっと立ち込め、入り口に座るおばちゃんに、また日本からたどり着いたのかい、と声をかけられる。夜が明けると早朝から店も開いている。指で骨をつまみながらカラチ(チチカカ湖の魚)の全身とサバロ(東部低地の魚)の頭をむしり食べる。飲み終わったらスープとチューニョ(乾燥ジャガイモの保存食)は少しお替りをもらえる。これを食べると、体と心と頭が場所に馴染んでいく気がする。





martes, 18 de julio de 2017

言語の教育の隘路と可能性

私は元々スペイン語教育を「専門」として「研究」したことはないのだが、自分の職業上の実践的な(つまりメチエとしての?)関心から気になって、折に触れて研究を読み、周囲を見ながら考えている。

ただし、関心をもてば関心をもつほど、自分が掘っている方向が、他の人たちがいる場所からだいぶ離れているような気がしてくる。

(1)文法とは、ただの文を作るためのルールの羅列ではない。「なぜ」を突き詰めることで、そもそものその言語の発想の仕方、世界の形成の仕方が、より鮮やかに見えるようになるものだ。もっと言えば、言語学(これは応用言語学ではなく)の知見の中に、実際の言語を使う際に役立つ部分が確実にあることへの信頼が、私は他の多くの人よりも高い。また、形式と内容はそもそも分離できないから、内容と文脈を持たない文で形式だけ練習することの効果を、私は深く懐疑している(この最後の点は有難いことに前の職場でも今の職場でも教員間で共有されている)。

(2)ただし文法とは、実際に使おうとする現場から立ち上がるものでしかない。日本社会は、言語習得において受け身の能力(特に読み)を過剰に優先しがちで、文法を先に説明して後から演習をするということは、結局は受け身の言語能力に特化した教育になりがちだ。そこにあるノイズを含めて明確に文脈化されたことばからスタートして、学生自身のマッピングと教員が築いてきたマッピングをすり合わせる。それは実際に使おうとする中で生まれるマッピングだ。

(3)「日本人教員」と「ネイティブ教員」という区別自体が私は嫌いだが、でも両者の間に越えがたい壁がある。日本人教員は往々にして日本の外国語教育の文脈にどっぷり漬かりすぎていて、現状を十分に批判的に見られない。また、特に教員はごくごく限られた無手勝流の「現地経験」を元に言語教育を云々することが多く、 言語に繊細かつ深い洞察を行うネイティブスピーカー(これは言語学者とは限らない)と丁寧に話す機会が少なすぎる。ネイティブ教員は日本の言語教育の歴史的文脈とそれが持つ凄みを、具体的な形で体験することがほとんどない。

ある種の条件はそれほど簡単にクリアできるものではない。そこで楽観的な見通しを持ってもしょうがない。でも、自分がひたすらやっていれば、そこと相通じる何かを他の人たちの中に見つけることだってできる。たぶん、そういうこと。

martes, 4 de julio de 2017

身体の相互浸透としての、花を生けること

古典花をやっていると、枝や茎の形を作っていく作業がとても重要になる。現代の花でも枝を丸めたりなどの細工をすることがあるが、古典の花は一本一本を作っていかないといけない。より職人的な作業が必要とされるというか。

この前に桔梗を生けていたときに、おもしろいことに気づいた。この草は切り口から粘り気のある汁が出てくるが、これが手についてくると茎の先端の細いところまで、けっこうきれいにためることができる。それは、水仙の花茎から出る汁を葉をつけるのに使うのと、少し似ている。

これは、身体を通じて植物に関わり、植物自体にどうすれば良いかを教えてもらうということだと思える。身体を植物に近づけて同期させていくような。

しかしそれは、植物を人間に近づけるということでもある。人間の思う正しさや、人間の思うありのままだ。相互浸透したい欲と、人間を投影してしまう業との間で、花は生けられてそこにある。

写真は桔梗の9本生け。市場は梅雨が終わる前にもう秋の花が出回る気の早さだ。

martes, 27 de junio de 2017

矛盾や亀裂から目を逸らさない地域研究へ


ラテンアメリカ地域についての外部からの研究者は、その地域を「理解」しようとするために、それを一つの十分に正常な型のバリエーションとして位置づけようとする、ストレートな枠組みを採用しがちだ。これは右派と左派を問わずにそう。

でも、本来ラテンアメリカの社会科学は、特に左派の社会科学は矛盾とか亀裂とかを重視してきた。当初は近代化や開発/発展の「正常な」モデルからのずれであり、不均等さ・異種混淆さであったが、そこから近代化や開発/発展を前提とせずとも社会自体が矛盾や亀裂の上に成り立っているという物の見方を鍛えてきたのだ、と私は思う。

こういう社会科学は厄介なので、外の人は手を出したがらない。でも、そういうことから目を背けたくないなと思う。私にとっては、そこにラテンアメリカが生んだ最良の感性があるのだ。まだまだこれからだ。

写真は、この本を読んでいるときにこの記事の内容を考えていた、という備忘のための記録。