lunes, 23 de julio de 2012

お話の遠くこちら側で

週末に友人が住む村のお祭りに行っていて、そこに料理の手伝いに来ていたおばあちゃんとの間のやり取りに、印象的なものがあった。

私はもともと口承文学(お話)に興味を持っているので、「ここではどんな話が話されるの?(Kuna kuñtunakas utji akanx.)」と聞いてみたら、要は「知っているけどお前には話さないよ」と言われたのだけれど、その時に実際には
Janiw intintsmati, janiw kuntistsmati.
と言われたのだ。

制度的なものをバックにせずに、訥々としたアイマラ語で、日常生活の中でお話を聞くのは、実は非常に難しい(はず)なので、断られたこと自体はとてもよく分かるのだけれど、このおばあちゃんの答えは実に深い言葉であるように私には思えた。

これ実はアイマラ語の動詞は両方ともスペイン語起源で、intintiñaはentenderから、kuntistañaはcontestarから来ているのだけれど、大体「お前には分らないだろうし、言葉を返すこともできないよ」と言っているのだ。ちなみに末尾の-tiが否定で(この場合途中で-k(a)が省略されている…全部ちゃんと言うと例えばintintksmatiとなる)、-smaはdesiderativoと呼ばれる推量の意味と可能の意味を両方持つ接尾辞の2人称の形だ。

(-smaは実は現在/過去形の1→2相互行為人称(私があなたに)でもあって、このおばあちゃんはスペイン語を話すときにほぼすべて3人称で通すので、その直前にこのスペイン語の話は誰のことなのだろうとしばらく悩んでいた私は、ここでもこれは私のことを言っているのだとちゃんと気付くまでにしばらく考え込んでいた。)

ちなみにあまりに考え込んでしまって、その後に直接「どういう風に言葉を返せばいいのかな(Kunjams kuntistañaxa)」と無粋なことを聞いてしまったら、ちゃんと答えてくれて
Aymarat parlaña, janiw kastillanuta.
と言ってくれた。これは「アイマラ語で話さないといけなくて、スペイン語ではダメだ」ということ。

ここまでお互いに一応アイマラ語で話しているのだが、もちろんそういうことではない。私のアイマラ語の水準と、よそ者のステータスと振る舞い方が組み合わさって、これはアイマラ語で話していることになっていないのだ。

(1)そんなに簡単に人に話すものではない。
(2)お話は対話の中で聞いていくものであって、うまく受け答えができないといけない
(この二番目の点は専門的にはMannheim and van FleetによるAmerican Ethnologistの論文で指摘されています。)

だからお話のアイマラ語は、言語の技術と本人の思いとが合わさった、大事な大事なアイマラ語なのだ。私がいつも教わったりしている渓谷部よりも高原部の方がハードルが高いような気がするけれど、私は何かから遠くとおく離れた所で何かをかすっているだけなのだ。話をしてもらっていると、話をしてもらえないことを忘れ始めるが、話をしてもらえないことの方が本当は大元にないといけない。そうしないと「いま」を見失ってしまうような気がする。

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