第六回ラテンアメリカ政治学会というもののためにエクアドルのキトに来ている。
自分の発表はしょっぱなに終わってしまったので、引き続き、エンリケ・ドゥッセル(Enrique Dussel、アルゼンチン出身)の思想に関するパネルで盛り上がったり、メキシコのFLACSOの人たちがLatinobarómetroを使って重要な現実的含意を引き出すような計量の発表をしていたり、それなりに刺激的なことはありつつ…、
理想的なことについて呑気に語りながら、そういう人たちがどんどん現実からずれた議論に陥っていくのを多く目にして、いやはやなんともはやと思っていた。
(ラテンアメリカの社会科学をやっているとそういうことはとても頻繁にあります。)
もちろん知識人とか研究者に分類される人は、そこから抜け出すことは勿論できなくて、ある種の浮世離れを程度の差はあっても宿命付けられてもいる。でもしかし、そのあり方として、これならばと思うことがあった。それでも知識人や研究者としてあり続けるための姿勢あるいは倫理のようなものを、何人かの参加者の発表中の話し方に見出すようであったのだ。
(1)顔を真っ赤にして、自分の直観を大事にしながら、情熱的に話し続ける気狂い
(この場合、素肌にシャツをそのまま着て、髪は長めで、髭を生やしていると、ポイントが高い)
(2)難問・批判を突き付けられる中で研ぎ澄まされるに従って、薄明るく透明になっていく議論の組み立て
(3)架橋しにくい溝があったときに、「それをつなごうとしているのが私だ」と引き受ける言葉をさらっと放てること
これはある種の深めて行き方のようなもので、そうすることでもう一回開かれて、またつながることができるようになるのかな。どうしようもないことが溢れる中に、心が通じるようなちょっと素敵なことだってあるね。
PS (こっそりと…)ドゥッセルを扱うパネルで一緒に盛り上がったコロンビア人のおじいちゃん、私の発表を席を立たずに最後まで聞いてくれていた(席を立ちがちの人であった)。こういう何かが通じている感じというのは、とてもとても励まされます。一緒にコーヒーを飲まないままに学会終っちゃったけど、どうもありがとうございました。
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