今日ある生徒の質問に答えて話そうとしたことを、自分で確認するために、もう一度。
大学入試の現国の勉強をするときに、知っているから問題が解けるんだという方向に、やはり僕は持っていきたくない。それだと知識があれば解けて、知識が無いとガクンという波から抜け出せない。高校生が現在の言論の動向に全て目を配っているべきだという想定は、やはり非現実的だ。そして、それは自分が思いもかけなかった何かを見出していくことに対して、とても閉鎖的に働くのではないだろうか。
だから、むしろ本文の組み立てられ方(様々なレベルでのパーツとパーツのつながれ方)に着目して、その形を見抜くための道具立てを揃えていく。そして選択肢を切るための道具立てを揃えていく。ただ「消去法」と言うならば、それは実は様々な理屈から成立しているものを大雑把にまとめているだけに過ぎない。つまりそれは、「論理学」の「論理」とはちょっと違う、実践的な論理の練習なのだ。
(ちょっと話がずれるけれど、大学の先生が入試問題について書くものは、往々にして木目が粗すぎて実際の受験生の役に立たない、というかそれでできるようになる受験生はそもそもそのような本を実は必要としていないのではないだろうかと思うことがある。だからやはり、鍛冶屋は鍛冶屋の仕事をではないけれど、大学の先生より塾や予備校の先生が細かくなるし、その意義はそれとしてあるはずだ。)
(そしてもちろん、この方向で考えているのは僕だけではなくて、あまりオリジナルな見解ではないと思う。)
そう考えることで、一つ一つの話題ごとに分類するのではない、論理の形に注目しながら考えていくことができるようになる。
でもそれだけではない。知識があれば読めると思って「分かる」と思う、その感じが僕は嫌いなのだ。それは結局字面を追いかけて納得したと思ってしまう、そこから一歩も出るものじゃない。そんなところで「分かる」と思いたくない。その一言一句が、その一つ一つのつながりが、実は何一つ分かっていることなんてないんだ。だから、そこからもう一度バラさないといけない、そこからもう一度切り込まないといけない。文章が到達点ではなくて、そこから世界に入っていくための入り口であってほしいんだ。
(念のために、入試の現国では知識が要求される部分がやはりあるので、それはそれで教えるというのはあった上での話。それは2000年代に入って増えてきたという印象がある。)
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