最近よく授業で話していること。問いの立て方には5W1Hというものがあるが、それぞれの疑問詞は並列に存在しているわけではない。私は、howからwhyへ、そしてwhatへ、という図式を作る。最初は「どうやればいいんだろう?」 と思う、つまりhowの疑問から始まる。ここに現実との最も強い接点がある。でも、それだけでは問いとして不十分で、「それはなぜそうなっているんだろう?」と問う、つまりwhyの疑問へと展開することで、当たり前であったことに亀裂を入れて、もう一度考え直すという作業へとつながる。つまり研究へとつながる。しかし、最後にはwhyですら不十分で、「これはいったい何なのだろう?」というwhatの問いが投げられるようになることが、その先の段階としてある。つまり、それがそこにあること自体に驚く、それができるようになることが、問いを立てる方法として基本のところにある。
これはたぶん順番が大事。whatの問いが最初に来るのではなく、奥義として存在していることが大事。基本は最初にあるのではなく、たどり着くところにあるべきなのだ。
言語教育に携わるということは、「どうすればうまくできるのだろう?」(how)の問いがまずもってある。実際に社会とかかわる「実務志向」とか「応用」と呼ばれるような研究分野でもそうだ。でもそれは、えてしてwhyそしてwhatの問いと乖離しがちだ。スペイン語がどうやったらうまく習得できるのか、うまく教えられるようになるのか、という問い。それは、なぜここはこうなっているのか、スペイン語とはいったい何なのか、どのような言語なのか、という問いから、ひたすら乖離を続けていると思う。応用言語学としての言語習得論は、元々の言語学の役に立つ部分とのつながりを、どんどん失っていっているのではないだろうか。そして逆にwhatやwhyの問いを重視する人は、howの問いを通じて現実と関わる、ということを見失ったのではないだろうか。
授業の場というのは、あくまでも実践の場で、だとしたら「専門分野」としての乖離の傾向に、現場ではとことん抗いたい、と思う。
そして最後に、横から、「それは結局誰にとっての?」という、whoseの疑問に刺し貫かれたい。
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