sábado, 20 de febrero de 2016

断絶のその先へ

いま自分が知っていることを、かつての自分が知ったとして、それでも私は大学の教員になる決心をしただろうか、と最近よく考えるようになった。私の場合は、その決断に明確な時期が存在する。いったん働いてから大学院の博士課程に戻ろうとした、自分が29歳の時だ。そこは後戻りのきかない、正確に言えば後戻りしないつもりの、決断だった。

自分がかつて学生として通い、周りの人たちや先生たちとご飯を食べたりした記憶のある場所2カ所(片方では正式なそこの学生としてではなかったけど)で、今度はフルタイムの仕事として職場に向かうという経験をここ最近にした。仕事としてそこに関わる中で、かつて自分が感じていた茫漠とした違和感が、これまた多くは茫漠とした形でスーッと腑に落ちた。やはりそうだったのかと、以前からの違和感をその理由とともに納得するような。それは、あまり心地のよいものではなく、むしろ知らなければよかった類のものであった。まだしばらくの間、この感触は続くのだろうと思う。

一つの例として、私はイギリスの影響を受けており、「応用」と名が付く人類学を中心として、実務の世界に関わる際のジレンマという問題関心にとても敏感だ。しかし、その問題関心は<学問としては正しい>が、<大学としては正しくない>。ジレンマに悩むその身を置く安全な場所は大学ではないし、そもそもその身は安全ではない。どの口で正しさを主張するのか、と思うほど、大学は外の社会と比べても正しい場所ではないし、おそらくは社会よりもさらにどうしようもない。社会からの自律が比較的冷静な判断と見立てを可能にする、ということだけでは、そのどうしようもなさは解消されなんてしない。

かつて既に幾つかの大学以外の職場を目にしていた自分は、大学で働くということ自体をいいとは思わなかっただろう。それでも先に進もうと思うとすれば、それは自分の場合には、大学の教員になる直前に手掛けていたことへの、既に愛着と呼べるのかどうかも分からない執着、自分でこれだと思って選び取ったことを何とかこの先も守ろうとすることだ。それは私の場合大学とは関係なく、そもそも学問は大学とは関係がないと思う方がいいのだと思う。

それでも、この先で何かに新たにコミットするとしたら、それは何もない場所からやるべきなのだ。

(ちなみに、私を含めた若手研究者を取り巻く状況の悪化は確実に存在し、上に書いたことは恵まれた環境にいながら何を勝手なことを、という気もしなくはない。ただ、あるところから先は、停滞するのも地獄だし、進むのも地獄なのだと思う。その中で、どこに価値を置くのかを確実に問い直す必要があって、私はやはり見通しが甘かったのだが、どう考えてもその当時にこれ以上ましな見通しなんて持てはしなかった。)

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