アイマラ語で一通り文法を教わった後に、人の言っていることが分かるようになって、話せるようになるにはどうすればいいんですか、というのは難しい質問だ。僕自身がまだ苦しんでいるし、これはある程度は永遠に苦しみ続けることにもなるし。語彙面でも、それ以外の面でも、段階を踏んで上がっていく教材がないような言葉を勉強している場合に。
少なくとも言えることは幾つかある。一つには、我々外からその言葉を勉強する人たちにとって、「読む」ことの位置付けは大きい。口承の文学を対訳形式で、幾つかの例では実際の会話を記録して対訳形式にしたものも、出版されている。(そこから先は僕は未公刊の資料を大量に扱っていて、そっちに来るかどうかは人それぞれだろう。)もう一つは、その場に居合わせることだ。人がその言葉で話し、議論している場所にうまく居合わせることだと思う。自分に対してしゃべってくれることもそうなんだけど、それだけではなくて、むしろ自分が一緒に居る人が他の人に対してどう関わっているか。その中で、こういう風に使うのかという感覚とレパートリーを自分も増やして、身につけていく。
「分かる」インプットとアウトプットの「必要」を蓄積していくという、下の本の感想文のエントリーを、具体的な場面に置き直すということになるだろうか。
でもこの過程は、先の見えない混沌とした状況に長く耐えないといけない。これは自分への戒めとしても。ただ、何も見えない混沌ではなく、何が自分にとって課題なのかが、その時その時で具体的にみえていることでもある。
横にずれると、アイヌ語を勉強するときに、ある所から先は独学の人は似たような問題に突き当たるのだと思う。その意味で、千葉大学の研究会に参加させてもらっていることは、とても参考になっている。これから先にアンデスの言語に関心を持つ人が増えてくるならば、そういう場所を作らないといけないんだろう。
これはまだ宿題として、考え続けよう。
2回目の投稿です(^_-)
ResponderBorrar面白いですね。ある希少言語を習得する過程というのは普通のマジョリティーとして話されている言語を習得するのとは大きく異なるのかもしれないし、でもある側面から考えれば、それはどの言語を習得する際にも言えるある普遍の法則上、同じことなのかもしれないとも思います。
例えばソシュールの言う「ラングとパロール」という言葉自体、何度も色々な日本語に置き換えられていながら、最終的にはフランス語を日本語のカタカナという記号に置き換えて、そこに概念で意味を与えています。
フランス語というマジョリティーの言語ですら、その言葉を全くの日本語に当てはめるというのはとても無理があって、どこかに違和感があるのだろうと思います。
ただ人によってはラングを言葉、パロールを言語メッセージと呼び分けることで言語習得だととらえる人もいるかもしれない。それに対応する日本語があるじゃないかという人がいるかもしれない。
でもやはり、言語の裏にある文化やもののとらえ方の違いは言語の単語そのものや言い回し等に大きく影響を与えていて、特に概念という見えないものは言葉を母国語に置き換えるという作業だけでは決してつかみきれないものだと思います。
私はある言語で自慢げに辞書を片手に日本のある諺を言ったことがあります。でも母国語話者にはそれが全く伝わらなかった。そんな諺が存在していないだけではなくて、その諺が意味することも分かってもらえなかったことがあります。
言葉をそのままそのtarget languageに当てはめることができることが言語習得ではなくて、その目的語の裏にある文化や考えを体得することが真の言語習得ではないかと思います。
それには決して終わりがなくて、そしてつかんだと思ってもそれは一瞬の夢だと気づくのです。
言語は本当に面白いですね。
By ある言語をあつかう人