清水透先生は、研究者としてのキャリアの後ろのほうになって、叙述において「風景が見えるということ」を大事にするようになっていった。これは、『エル・チチョンの怒り』(東京大学出版会、1988年)の冒頭のように、情景描写を置いた上で、語りに入るというふうに捉えられることがあり、ひょっとすると本人もそう思っているふしがある。
この「風景が見えること」は、近年の<声を発することのなかった死者たちの声が聞こえる>というモチーフへとつながる、清水先生の中の重要な概念であるのだが、私自身はこれについて、単に情景描写をするということではないのだと思っている。
それは、おそらく単語一つ一つのレベルで、そこから風景が匂い立つように書くということであって、叙述の全てにわたって言えることなのだろうと思う。すると、風景は、歴史叙述を取り巻く文脈でも環境でもなく、叙述そのものと相互浸透し、叙述から匂い立つような「風景」、なのだと思う。
だとすると、清水先生のオーラルヒストリーは、翻訳であることに大きな意味があることになる。翻訳の過程で、風景が匂い立つように訳語を工夫することができるからだ。そうすると、そんなに簡単にスペイン語で出せと言えなくなってしまう、か。先生は、翻訳をそれほど頻繁に手がけてこられたわけではないが、翻訳がご自身の方法のやはり根幹にあると考えたほうがよいのか。
あまり、そのように考えてこなかったのだが、ふとこの前の研究会でそのような思いに取りつかれた。記録のために、ここに書き留めておく。
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