jueves, 17 de septiembre de 2015

悔しさと怒りの置き場のない夜に

前から見えていた卑劣さと卑屈さが決定的に増幅され、民主主義の欠如だけでなく「クーデター」という考え方まで見えてきた夜に。

私が一番長くかかわってきた南米のボリビアの社会は、どのような理屈で動いているのかが分かりにくいとされ、私も長いことそのように思ってきた。しかし、危機に直面すると、大きな意味で、徐々に、社会のスローガンも論者の見立ても収束していく。私はそこに目を凝らすだけでよかった。しかし、ここの日本社会では、危機の最中でも言論における立場取りが際限なく分裂していくような印象を受ける。そもそもそういうものかと暫くは思おうとしてみていたのだけれど、自分の立ち位置の差別化に腐心する傾向が目につき、或いは批判しつつも大きな意味で共闘することが振る舞いにおいて見えなかったり、そして何よりもコロニアル状況の中にどっぷり漬かっている度合いが元々自分が思っていたよりも遥かに大きいのかもしれないと考えつつある。

コロニアル状況の中で人が一貫した行動を取れるし取るべきだ、ということを前提として考えるべきではないと私は基本的に思っていて、公刊されている文章にもそのように書いているのだが、ただそれでも、そのような困難な状況の中で射程を遠く遠く持ちうる立場がどこにあるのかには関心がある。

昨日9月17日の東京大学駒場キャンパスでの集会で、島薗進さんは、「いのち」が脅かされそうで胸が潰れる感じを、自分の子どもに対する情愛(と病気に対する心配)といまの安保状況を通底させながら指摘し、西崎文子さんは、渡辺一夫と大江健三郎の言葉を拠り所としながら、「もう一つの」日米関係に向かう可能性を指し示そうとした。それぞれがそれぞれに慣れない行為としての発言だったのだと言っていたし、したがって私にとって必ずしも聴き取り易い発言ではなかったのだが、それぞれが信頼できる言葉だと思った。そう自分が思っていることを確かめるまでに一日かかった。この集会の書き起こしもいずれ配布がされるとよいなと思う。

ここで「戦後の欺瞞」とされているものから我々が「脱却」するならば(ここの鍵括弧は私が必ずしも賛成していないことを意味する)、その出発地点はその前よりも遥かに条件の悪い場所になるのだろう。そのときに、誰の何を受け継ごうとするのか、私はさらに真剣で問われることとなるはずだ。

最後にもう一つ。東大に限ったことではもちろんないが、正解を当てに行こうとするような言葉の紡ぎ方、そして当てに行ったことで自分自身からどんどん離れていく言葉の紡ぎ方が蔓延る方向へ、大学で仕事をするまでの長い間大学受験業界で生きてきた私は結局加担してしまった。そのことも、私は今回まざまざと見せつけられた。そうじゃない何かを私はそこに介入させようとしたと思いたいけれども、結局加担したことに変わりはない。参議院の安全法制特別委員会の中央公聴会での、奥田愛基さん(SEALDs)の言葉を読み、そして動画で聞き、私はちょっとほっとした。いろんな人が言っているが、私も彼がいてくれたことに感謝している。そしてその思いは、塾の場で、そして大学の場で、様々に自分自身の言葉の片りんを見せてくれた人たちへの思いへと広がっている。