ボリビアにおける私の師匠の、折に触れて言及している人ではない方の、ボリビア政府の要職に就いている方の人。
いったいなぜこうなった。
まだ、その職に就いた後の激務の合間を縫って、最後にまともに会ってから話してから、たったの9年だぞ。なぜこうなった。9年はそれだけの期間なのか。
余りに展開が早すぎたから、自らの知性を十分に成熟させる暇がなかったのか、運動が十分に成熟する暇がなかったのか。だとしても、こんなに簡単にビジョンは失われるものなのか。あんなに鋭かった冷徹な洞察は、こんなに無残にも失われるのか。
これは、今の国際情勢では真の変革には数十年を要するから、この現実にはこれしか答えがないという、絶望に満ちた身振りなのか。それとも権力の働きに心身ともに完全に取り込まれた、残骸のような姿なのか。
まずは来週、そしておそらく来年途中から、さすがにもう一度わたしは本格的にこのことと向き合わなければならない。
私はあの人と似ている、とずっと思っていた。だから目を背けたくて仕方がない。悲しくて仕方がない。嘘だと言ってほしいし、今やっていることは全部わざとだと言ってほしい。
jueves, 26 de noviembre de 2015
martes, 10 de noviembre de 2015
子どもと自分と
自分のことが自分でどの程度客観的に見れるものかは、それ自体常に厄介な問題だけれど、子どもが自分に似ているかどうかはなぜか更に厄介で、私にはどうも判断が付かない。
みんなが似ているというのだが、どこが似ているのかサッパリ分からない。(似ていて嬉しくないというのではないのです。)
むしろ連れ合いの系列に似ている部分はとてもよく見えるもので、私には子どもがそっち側にすごくよく似ているように思うのだが、それはそれで言ってみても、いまいち反応が悪い。
人の認識って不思議なもんだなと日々思いつつ、なぜか私と一緒にいるときだけ号泣する子どもと一緒に生きております。なぜだ、なぜなんだ。
みんなが似ているというのだが、どこが似ているのかサッパリ分からない。(似ていて嬉しくないというのではないのです。)
むしろ連れ合いの系列に似ている部分はとてもよく見えるもので、私には子どもがそっち側にすごくよく似ているように思うのだが、それはそれで言ってみても、いまいち反応が悪い。
人の認識って不思議なもんだなと日々思いつつ、なぜか私と一緒にいるときだけ号泣する子どもと一緒に生きております。なぜだ、なぜなんだ。
授業の配置とバランスについて
本来われわれは、多くの場合、自分の狭い意味での「専門」(があるとすればであるが)を反映したポストに就くことが望めなかったりする。ラテンアメリカ研究者の多くは語学の教員として生きているのであり、それは専門科目まで含むこともあるが、ただの語学オンリーの教員であることもあり、語学の授業のコマ数が週に10コマを越えるなんて状況は当たり前のようにあって、今の時代はそんな贅沢を言ってられる場合では全くない。
(授業の数が極端に少なく調査・研究に没頭できるポストが以前は存在したなんて、もうリアリティをもって想像できなくなってしまった。)
そしてそうであっても、研究は続けられるはずだし、当然続けなければならないはずだ。
……のはずなのだが、どうも私はスペイン語の授業だけで一週間が埋め尽くされると、そちらにしか目が向かなくなり、スペイン語についての勉強は進んでいくのだが、本来の研究は2年半ほど大幅に停滞した。二度ほど、ものすごい気合で事態を逆転させようと試みたのだが、身体的にかなり大きな負担がかかった。
たぶんこれは、そもそも語学の教員は授業のコマ数が多いので、一週間の平日をほとんど(一日当たり複数コマの)授業で埋められてしまうこととも関係する。 つまり気持ちがもう切り替わらなくなってしまうのだ。
これは良い面もある。私はここまで2年ほどスペイン語「しか」教えていなかったので、逆にスペイン語とかなり真面目に向き合う機会を得た。地域研究者が語学教員をやる場合、どうしても腰掛け気分になってしまう弊害があり(稀な例外はもちろんある)、<適当なところで許してね>的な甘えが出て来ることは否めない。地域研究者だからこそできる語学教育はもちろんあるはずなのだが、それがその言語の言語としての側面を適当に済ませて出来ることなのか、私には確信がもてない。
でもそれは、貴重な機会ではあっても、自分のバランスを非常に悪くする機会でもあった。
今年度の後半になって、授業で担当するコマのバランスがガラッと変わり、学生の人数がそれほど多くなく(そしてそれは確実にとてもよいことで)、元々自分が関心を持って手掛けていることと授業の配置とが、だいたい対応するようになった。そして、自分の授業の何かが相手の何人かに届いている気がするだけで(それはもちろん全員ではないが)、こんなことをやってみたいと向こうから積極的に提案してきてくれるたびに、そして寝ないで話を聞きたいからと学生がすごい努力をしているのを見たりするたびに(そこまでしないと起きてられないのかとビックリもするけれど)、狭い狭いところでもがいていた自分のバランスが戻っていく感じがする。
まあ、まだまだですけど。ていうか、最初の年度なのでまたもや溺れそうであっぷあっぷしてますけど。
どうしても教える側は、学生に助けられます。感謝しています。
(授業の数が極端に少なく調査・研究に没頭できるポストが以前は存在したなんて、もうリアリティをもって想像できなくなってしまった。)
そしてそうであっても、研究は続けられるはずだし、当然続けなければならないはずだ。
……のはずなのだが、どうも私はスペイン語の授業だけで一週間が埋め尽くされると、そちらにしか目が向かなくなり、スペイン語についての勉強は進んでいくのだが、本来の研究は2年半ほど大幅に停滞した。二度ほど、ものすごい気合で事態を逆転させようと試みたのだが、身体的にかなり大きな負担がかかった。
たぶんこれは、そもそも語学の教員は授業のコマ数が多いので、一週間の平日をほとんど(一日当たり複数コマの)授業で埋められてしまうこととも関係する。 つまり気持ちがもう切り替わらなくなってしまうのだ。
これは良い面もある。私はここまで2年ほどスペイン語「しか」教えていなかったので、逆にスペイン語とかなり真面目に向き合う機会を得た。地域研究者が語学教員をやる場合、どうしても腰掛け気分になってしまう弊害があり(稀な例外はもちろんある)、<適当なところで許してね>的な甘えが出て来ることは否めない。地域研究者だからこそできる語学教育はもちろんあるはずなのだが、それがその言語の言語としての側面を適当に済ませて出来ることなのか、私には確信がもてない。
でもそれは、貴重な機会ではあっても、自分のバランスを非常に悪くする機会でもあった。
今年度の後半になって、授業で担当するコマのバランスがガラッと変わり、学生の人数がそれほど多くなく(そしてそれは確実にとてもよいことで)、元々自分が関心を持って手掛けていることと授業の配置とが、だいたい対応するようになった。そして、自分の授業の何かが相手の何人かに届いている気がするだけで(それはもちろん全員ではないが)、こんなことをやってみたいと向こうから積極的に提案してきてくれるたびに、そして寝ないで話を聞きたいからと学生がすごい努力をしているのを見たりするたびに(そこまでしないと起きてられないのかとビックリもするけれど)、狭い狭いところでもがいていた自分のバランスが戻っていく感じがする。
まあ、まだまだですけど。ていうか、最初の年度なのでまたもや溺れそうであっぷあっぷしてますけど。
どうしても教える側は、学生に助けられます。感謝しています。