viernes, 27 de agosto de 2010
師匠
今日夕方に民族学の年次総会に行ってみたら、そのグループのブースが出て、先生があぐらをかいて座っている。雑誌の入校が一段落したのだな。段になっているところに横に座らせてもらうと、弾丸のようにしゃべり始めた。常に問題意識が鋭くて、それが現実からずれない、現実に切り込もうとすることからぶれない。アカデミックなことに関心があるというよりは、現実にどう役立つ考え方をするかに関心があるんだと常々話している通りだ。この人にとって、考えるということはその人の生き方そのものなのだと思う。性格のとても烈しい人。
アンデスでキリストと悪魔が重ね合わせて捉えられること、イメージを通じて18世紀の先住民の大反乱と2003年の社会反乱とをどう対話させるか、二人の筆者のテクストが併存し相互に絡み合うように編集上のレイアウトをどう工夫するか、自分が街中でしゃべってきた(庶民の)スペイン語がアイマラ語世界とそれを知らない若者たちの世界をつなぐ蝶番の役割を果たす可能性。
この人に対しても僕は返せないほどの学恩がある。いや、多分この「恩」は「学」だけではない。何年も何年も、体が感覚で何度も覚えようとしてきた生きて考えるこの人の感覚を、果たして僕は何か形にして外にもう一回出せるのだろうか。
Silviaはここ何年もsociología de la imágenと呼ぶものに取り組んできたのだが、植民地時代の宗教画を中心としてこれを実践したPrincipio Potosí Reversoという写真と映像満載の本がスペインで出版された。そして「混血」を均質化を求める動きとしてではなく、対立と補完する複数の要素の斑模様として捉え直す試みを続けてきていて、アルゼンチンでCh'ixinakax utxiwaという文庫サイズの本が出版された。両方とも僕がボリビアにいなかったここ四ヶ月の話だから、すごいバイタリティーだ。
jueves, 26 de agosto de 2010
塾の先生と自分の研究
実際にどう教えているかというよりは、自分の研究に関係ある話を。古文の先生をしているときは、古文の基礎は品詞分解をして直訳をすることだと教えます。要は助動詞や助詞などのパーツを一つ一つ正確に訳してつなげるような、それでいて日本語としてちゃんとしている訳をできるようになる、ということです。その先にももっとたくさんあるのですが、まずはこれですら学校でなかなかうまく教えてもらえていない生徒は多い。
広い文脈につなげると、これは小説家の人々が取り組む訳というよりも、そして一般の人を対象として分かり易い日本語で意訳するというよりも、大学で勉強するということを視野に入れた訳の仕方だと言えるのだろうと思います。源氏物語を中心とした藤井貞和さんの「研究語訳」という提唱と取り組みは、この延長線上につながってくるのだと思います。
さてさて、僕はこれは古文の話だと思っていたのですが(ただし漢文も漢字の品詞を考えるという似た教え方をしますが)、アンデスの言葉を勉強するようになって、そして研究の世界を垣間見るようになって、おおっと思ったことがあります。僕は言語学の細かいことにあまり詳しくないので言葉使いがちょっと変になるかもしれないのですが、アンデスのケチュア語とアイマラ語はともに接尾辞を連ねて動詞や名詞に意味を付け加えていく言語です。つまり日本語の助動詞と助詞のようなものを持つ「膠着語」と呼ばれる種類に属する言語で、日本語のように漢字の力に早くから頼らなかった分、それぞれの接尾辞の意味の場の広がりと組み合わせ方が一層複雑なように思います。
そうすると何と研究者の人たちは「品詞分解」にあたるものをします。análisis morfológicoと呼ばれるものがそれです。そして、スペイン語に訳すときに「アンデスのスペイン語(castellano andino)」と呼ばれる、この地域で普通の人々が話すスペイン語の方言のようなもので訳すべきことが提唱されるのです。ここではスペイン語は長らくアンデスの言語と接触してきたので、アンデスの言語の特徴の影響を受けた様々な言い回しが発達してきました。つまり境界領域での翻訳が長期にわたって行われてきた訳ですね。そのようなスペイン語の種類を使った方が、正確に直訳に近い仕方で訳が工夫できる、と考えるのです。
こう考えて来ると、日本語の古文の世界とアンデスの言語の世界が思わぬところで結びついて比較できるようになってきます。
ただし、文化的な状況説明を必要に応じて加えながら訳すという姿勢を強調することもできます。César Itierのケチュア語の口承文学の訳や、Ricardo ValderramaとCarmen Escalanteのオーラルヒストリーの訳は、どちらかというとそちらに重点を置いた訳になっています。この辺りも、日本の古文の訳を巡る議論とかぶってくるところがあるかもしれません。
miércoles, 25 de agosto de 2010
一瞬の街の光景
domingo, 22 de agosto de 2010
トマト?
jueves, 19 de agosto de 2010
クスコの街
だからこそ、クスコのサントドミンゴ教会を、その土台をなすインカの神殿コリカンチャとともに、爆弾テロを仕掛けて吹っ飛ばす構想に、同じくらい共感してしまう。アイマラの無政府フェミニズム組織の女性が主人公の、Alison Speddingという人が書いたこのボリビアの小説は、まさにこの場面のせいでペルーでは発禁処分になっているらしい。(ただしそもそもボリビアで出版された本は、ペルーでは基本的に手に入らない。)社会変革を拒む抑圧の機構が、ペルーでは幾重にも人々を取り巻いている。(ただしボリビアの状況がましだと言っているわけではありません。)
ちなみにこの小説では、独立戦争を始めたアイマラの人々は、アメリカ合衆国によってエルアルトに原爆を落とされる。そして国際的に封鎖された後は、組合組織(Sindicato)が宇宙船の操縦によって必要な外貨をもたらすのだが、その宇宙社会ではなぜかTrade Japaneseなるものが公用語になっている、という謎の日本モチーフが連続します。アイマラ語とスペイン語で書かれたこのSF小説は、De cuando en cuando Saturnina: Una historia oral del futuroと題されています。ボリビアではとても評判がいいので、見つけた方はぜひ。
(8月26日追記:ボリビアに戻ってみると第2版が出ていました。)
交通事故
この人はEdith Zevallosと言って、Bruce Mannheim(米国)とかCésar Itier(フランス)とか他の外国のケチュア語関係の研究者のカウンターパートのようになって、学生を受け入れたり世話をしたりしてきた。去年は一年間ミシガン大学に客員として行っていたので、会えなかったのだ。
元々の村(Pomacanchi)の、かつて一緒に時間を過ごしてケチュア語の練習をさせてもらった家族の近況も聞く。先生、生きていてよかった。アイマラ語の勉強を始めてから、どっちつかずのカタツムリ行進が続いている僕のケチュア語も、もうちょっとうまくなったところを見せたい。来年また良くなったら、色々と質問に答えてもらう約束をして、お別れをする。その人に会うと、昔のその一つ一つの瞬間とその空間の雰囲気が戻ってくる。
lunes, 16 de agosto de 2010
私にどうなれって言うのっ
domingo, 15 de agosto de 2010
[readingcritiques]「国民文学論」の話へのコメント
viernes, 13 de agosto de 2010
Suma Qamaña o Vivir Bien
miércoles, 11 de agosto de 2010
1949年にアイマラ語で詩を朗読すること
今年二月に亡くなったMatilde Garvíaという人がいた。今日は、彼女の追悼の催しがあったのだ。彼女とAugusto Céspedesとの間の娘が全体の構成を担当していた。
この国では1952年に革命が起きた。この革命は混血の思想に主導されたために「先住民」の位置がないことが、その後になって次の時代への動きを作り出す。とはいえ、農地改革、教育の農村への普及、普通選挙など、大きな変革をこの時代のボリビア社会は経験する。
しかし、それよりもさらに3年前。ボリビア映画史の最初期に女優として活躍したそのMatilde Garvíaが、Teatro Municipal(市立劇場)という上流階層の文化の中心地で、アイマラ語の詩の朗読を、オーケストラによるアンデス音楽を基盤とする楽曲の演奏と組み合わせるという、前代未聞の催しを試みた。プログラムの名前はAntis Aru(アンデスの言葉)。会場には、当時の新聞記事の数々が貼り出され、いかに反響が大きかったかが伺える。それらの記事を読んでいると、フォルクローレというのは現代では政治経済と関係なく文化の領域にその民族を閉じ込めてしまうという批判がなされるが、その文化の領域だけでも「死にいくもの」としての位置付けだけでない生きた関心が持たれることが、当時の主流社会の中でいかに大きな衝撃だったかが分かる。
僕自身がここで色々と教わっている師匠のような存在であるSilvia Rivera Cusicanquiと、僕と同世代くらいの人たちの集団が追悼映像の作成を担当し、今一緒に仕事をしているFilomena Ninaという人が、そのアイマラ語の詩の現代の書記法への書き換えと翻訳を担当していたから、この人の存在を知った。
詩の原作者はAntonio González Bravoと言う。当時アンデスの文化に興味を持ちアルティプラノ(高原地帯)を歩き回っていた人らしい。美しい詩だった。今までに出版されているアイマラ語の詩のアンソロジーに、この人は載っていない。アイマラの文化に興味を持って入っていこうとして、言葉を磨いていって詩を書いた。クスコでは、そのようにアンデス文化を愛しケチュア語で見事な詩を作ったAndrés Alencastreという人は、同時に自分の農園ではインディオに対して暴君であった(後に自分の農園の農民たちに虐殺される)。この人とアイマラの人たちの関係はどうだったのだろうか。
当時のUMSA(国立サンアンドレス大学)には、アイマラ語の講座もあったらしい。僕がアイマラ語を教わったJuan de Dios Yapitaという人が、1970年代に言語学科の設立に関わって初めて教えられるようになったのだろうと思っていた。昔のことで分かっていないことは沢山あって、また一つ世界が重層的になっていく。
martes, 10 de agosto de 2010
分断された人種社会で生活すること
domingo, 8 de agosto de 2010
chuyma usutu
sábado, 7 de agosto de 2010
食べ物の話題二種
ボリビアで大好きな食べ物の一つにwallaqiという魚のスープがある。wallaqiñaはアイマラ語でhervir, bullir(沸騰する、沸き立つ)という意味。チチカカ湖で捕れる魚の一つにkarachiという魚があって、小さくて骨っぽくて食べにくいのだけれど、とても美味しいだしが出て、身も実は香ばしい。ペルーのクスコで僕がお世話になっている家族は、真ん中の娘が妊娠したときに、力を着けるために(ラパスのとはちょっと違う)karachiのスープを作って食べさせていたらしい。ラパスのwallaqiは、黄トウガラシをベースにしたスープで、ジャガイモと、チューニョ(ch’uñu)と呼ばれる黒い乾燥ジャガイモを戻したものと、あとは魚が入っている。
ラパス市内にロドリゲス市場という大きな市場があって、週末は付近の道路も露店で全て埋まる、その市場からPlaza Belzúに向かって下りていく道に、週末は大量の人が群がってその中で一人のおばちゃんがアタフタして[そのせいで]ブスッとしている。¿Hay todavía señora?(まだある?)と聞くと、Siempre hay, pero no hay tiempo de servir.(あるけど、よそう時間がないんだよ)と横で待っている人が茶化してくる。我先にくれくれと言う人たちと張り合って自分の分を確保して、小椅子か道ばたの段に座って、魚の身をむしりながら食べる、食べる。最後にスープだけyapa(aumento、おかわり)ができる。11時を過ぎるともう無くなってしまう、午前中の食べ物だ。
誰にも役立たない情報かもしれないのだが、前に人と一緒に行った、エルアルトのCruce a Villa Adelaから一ブロック入ったところに出ているwallaqiの露店もおいしい。(追記:どうもPuente Avaroaのwallaqiも美味しいらしい。行ってみねば。)
そのあと新聞を買って宿に戻ろうとする途中でレストランの中から声をかけられる。去年一年間住まわせてもらっていた小森さん一家のご主人のお父さんとお母さんだ。
アンデスのトウガラシにlocotoというものがあるのだけど、この家の名物は、それを種を除いて刻んで醤油に漬ける、その名もlocoto con shoyuという発明品があり、これがなんとchicharrónやlechónを含めて様々なボリビアの料理に本当に良く合う。僕は去年病み付きになった。(locotoは、上の黄トウガラシ(ají de vaina)とは違う。それ以外にも緑で小粒でめちゃ辛いurukipaというトウガラシがある。)
時間がないときは粉末locotoを買ってきて、醤油をぐじゃぐじゃっと混ぜるだけでも十分にその役を果たす。
今回の滞在でも一度ご飯にお呼ばれする予定で、今から楽しみ。新しい土地で人が生み出すご飯の味には、ピリッと効いた魅力があると思わせてくれる。
Agosto, mes de pachamama
ル・グウィン追記
これはある意味で「充足」の方向に向かうということ、何かを「取り戻す」ということに重点が置かれている。これは、『ファンタジーの言葉』における人類学者の娘として「インフォーマント」(ここでの家族と先住民の関係には明らかにこの言葉があてはまる)の先住民出身の男性たちと、それでも人間的な関係を築いてきた、という彼女の立ち位置に、おそらく深くつながっている。
ここには根本的な疎外されているという感覚はない。ふと大江健三郎と比べてみると面白いのではないかと思う。例えば古義人の分身であるコギーがある日いきなり森の彼方に去っていってしまって、二度と戻って来なかったりするようなことは、ない。(ただしコギーは「影」ともそもそも違っているけどね。)
「統一性」を批判するというスタンスは取れるような気がするのだけれど、むしろもう一段フラットに、同じ問題を共有したときの違う方向への取り組みとして他と比べながら読んでいると、面白いのかもしれないな。